HISTORICAL PERSON · 1281年没

チャブイ

クビライの皇后で、コンギラト部族の出身。4子を産み、次男チンキムらは元朝で要職を担った。用人アフマドが財務長官となるなど縁者が政権中枢を占め、1281年に没して昭睿順聖皇后と追諡された。

生涯
1281年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

チャブイは、モンゴル帝国(元)のカアン、世祖クビライの皇后である。漢字では察必と書かれ、ペルシア語の史書『集史』にもその名が見える。コンギラト部族の出身で、1216年頃に生まれたとされる。父はアルチ・ノヤンといい、チンギス・カンの第一夫人ボルテの弟にあたる。つまりチャブイはボルテの姪で、夫となるクビライはそのボルテの孫だった。結婚してからは、夭折したドルジのほか、のちにクビライの政権で活躍するチンキム、マンガラ、ノムガンを産んだ。美しく魅力に富む女性だったと『集史』は述べている。儒教との融和を進めて漢人の支持を得るなど、政治や外交にも影響力があり、その評判はボルテにも比べられた。

チャブイの実家のコンギラト部族を中心とする五投下と呼ばれる部族集団は、兄のモンケから中国の経略を任されたクビライを支えて活躍した。とりわけ、チャブイの同母姉が嫁いだジャライル部のボオルの三男バアトルは、クビライの腹心となった。1259年にモンケが死ぬと、クビライはアリク・ブケと争いながらカアンの位を手に入れるが、このときバアトルは大きな功をあげた。チャブイも、アリク・ブケの動きを前もって夫に知らせたとされる。また、自分の宮廷にアフマドら有能な商人を用人として集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力を築いた。モンゴルの帽子にはもともと庇がなかったが、チャブイが夫のために庇を縫いつけたという逸話が伝わり、貂の毛皮の庇つきの帽子は元の歴代皇帝の肖像にも描かれた。馬に乗って弓を射るのに便利な、襟も袖もない比甲という衣服も、チャブイの考案とされる。仏教も篤く信じ、クビライとパクパの宗教上の争いを仲裁し、パクパを経済的にも政治的にも支えた。

1271年にクビライが元朝を建てると、チンキムは燕王、マンガラは安西王、ノムガンは北平王に封じられ、中国北部、中国西部、モンゴル高原をそれぞれ分担して治めた。中央政府ではチンキムが、行政機関の中書省と軍政機関の枢密院を統括した。バアトル夫妻の子で、チャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となり、新しい財務部局の長官にはチャブイの用人だったアフマドが抜擢された。元の政権の中枢はチャブイの縁者で占められ、そのため歴史家の中には、大元王朝とはチャブイを要とするコンギラト政権だったと評価する者もいる。

1273年、チンキムが皇太子の称号を与えられると同時に、チャブイには皇后の印璽が授けられた。このころ、財務部門を握って中書省の勢力をアントンと二分したアフマドの権勢も高まり、その一派は、チンキムとアントンのもとに集まったモンゴル貴族や漢人官僚と反目を深めた。しかし両者の接点にチャブイがいたため、対立は決定的にならずにすんだ。

1281年2月、チャブイは世を去った。亡くなる際、姪のナンビュイがのちにクビライの妻となるよう取り計らったとみられる。死後、チンキム派とアフマド派の対立はたちまち激しくなり、翌年にはアフマドが暗殺されるに至った。1294年にクビライが亡くなり世祖と諡されると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡された。チャブイが築いた莫大な財産は、同じコンギラト部族出身のチンキムの夫人ココジンが相続した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。