伝記
ペイレ・カルデナルは、南フランスのトルバドゥール(吟遊詩人)で、風刺詩と聖職者嫌いで知られた人物である。1180年ごろ、南フランスのヴレー地方のピュイ=アン=ヴレーに、貴族の家に生まれたらしい。カルデナルという姓は、この地方の13世紀の文書に多く現れる。聖堂参事会員として教育を受けたが、その教育が俗語の抒情詩に近づくきっかけとなり、「世の虚栄」を理由に教会での出世を捨てたと伝えられる。教会法は独学で身につけた。
詩人としての経歴は、トゥールーズ伯レーモン6世の宮廷で、庇護を求めることから始まった。1204年の文書には、レーモンの書記局の書記として「ペトルス・カルディナリス」という人物の名が見え、これが彼だと考えられる。ただし宮廷では、ペイレ・デル・ポイの名で知られていたようである。1213年ごろには、トゥールーズ伯の宮廷で風刺詩を作ったらしく、この詩が、アラゴン王ペドロ2世をムレの戦いでのトゥールーズ支援に向かわせる一助になったかもしれないといわれる。ペドロ2世はこの戦いで戦死した。1229年ごろ、ドミニコ会がトゥールーズに異端審問所を置いたころの作とされる風刺詩では、ドミニコ会士を揶揄した。1238年ごろには、アイメリック・ド・ペギヤンと詩の応酬を交わしている。1245年ごろ、第1回リヨン公会議のあとには、聖職者が信徒を「所有」するかのようにふるまうことを非難する詩を、おそらく書いた。若いころのペイレは、フランス人、聖職者、アルビジョワ十字軍に激しく反対した。ただし、キリスト教や十字軍そのものに反対したわけではない。
その後は、オーヴェルニュ、レ・ボー、フォワ、ロデーズ、ヴィエンヌなどの宮廷を訪ねて広く旅をした。旅には、詩の中に名前が出てくる芸人たちを連れていた。旅先ではアイメリック・ド・ベレノイやレーモン・ド・ミラヴァルと出会い、ロデーズではダウデ・ド・プラダスやギロー・リキエにも会ったかもしれない。スペインに足をのばして、アルフォンソ10世やハイメ1世に会った可能性もある。晩年には、1270年に第8回十字軍で亡くなったルイ9世の跡を継いだフィリップ3世に、シリアにいたエドワード長脚王を助けに行くよう促す詩も書いた。
作品は96点が残り、同時代の詩人でこれほど多く残した人は少ない。1278年に亡くなり、没地はモンペリエとも、ニームともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン (1278年没)
- ボレスワフ2世ロガトカ (1278年没)
- ツィタ・ディ・ルッカ (1278年没)
- ミツォ・アセン (1278年(推定))
- バルニム1世 (ポメラニア公) (1278年没)
同じ地域に関係する人物
- ミチェル・フェリックス・デュナル (1856年没)
- ジャン・セス (1969年没)
- ジャン・ヴィラール (1971年没)
- ルシアン・テニエール (1954年没)
- Auguste Brizeux (1858年没)