伝記
クィントゥス・ティトゥリウス・サビヌスは、共和政ローマの軍人である。生年は不明で、紀元前54年に没した。ガリア戦争においてガイウス・ユリウス・カエサルの副官(レガトゥス)を務めた一人で、カエサルの著した『ガリア戦記』を通じて名を知られている。
紀元前57年、ガリア総督カエサルの率いるローマ軍がベルガエ人の領土であるベルギウム(現在のベルギー)へ侵攻した際、サビヌスは副官として従った。カエサルがビブラクスの包囲を解くために動いたとき、サビヌスはレミ族の領内を流れるアクソナ川に架かる橋の守備を命じられた。その後のアクソナ川の戦いでは、ベルガエ勢が別の場所で川を渡ってカエサルの陣営を襲おうとしたが、サビヌスがこの動きをカエサルに報告したため、カエサルは策を阻むことができ、ベルガエ勢は退却を強いられた。南岸の陣地を守って北岸の陣営を支えたとも伝えられる。
紀元前56年には、海沿いのガリアに住むウェネッリ族、クリオソリタエ族、レクソウィイ族がウィリドウィクスの指導のもとで反乱を起こした。サビヌスは3個軍団を率いて鎮圧に向かった。丘の上に陣を築き、数日にわたる敵の襲撃に耐えたのち、味方のガリア人の一人に偽って敵へ寝返らせ、ローマ軍の指揮官は臆病で今夜にも逃げ出すつもりだと信じ込ませた。これを聞いた反乱軍は直ちに陣営へ攻めかかった。ガリア人は1マイル以上の坂を登って疲れ果てており、サビヌスの命で打って出た兵士たちに驚くほど簡単に押し返され、完全に打ち破られた。こうして反乱は鎮められた。その後の数年間も、サビヌスはカエサルのガリア平定に従って大きな勲功を挙げた。
紀元前54年の晩秋、カエサルはサビヌスと同僚の副官ルキウス・アウルンクレイウス・コッタに命じ、第14軍団と5個コホルス(歩兵大隊)を、ライン川とマース川のあいだに住むベルガエ系のエブロネス族の領内へ移して冬営させた。二人はエブロネスの王カトゥウォルクスとアンビオリクスに迎えられ、アトゥアトゥカの町の近くに陣営を築いた。この頃、反ローマの立場をとるインドゥティオマルスから蜂起を促す使者が王たちに届いたと、カエサルは記している。到着から2週間ほどしかたたないうちに、サビヌスらはアンビオリクスの軍の突然の攻撃を受けた。短い小競り合いののち、アンビオリクスは副官たちと会見し、自分は民に迫られて戦わされているのだと述べたうえで、ゲルマン人の軍勢がライン川を渡って攻めてくると告げた。
この知らせをめぐって、サビヌスとコッタの意見は分かれた。サビヌスはライン川へ向かってゲルマン人を迎え撃つべきだと主張し、コッタは現在の陣地にとどまり、その防備を頼りに戦うべきだと主張した。結局コッタが折れ、ローマ軍は出発の支度を整えた。ところが行軍の途中、谷あいの道でアンビオリクス率いるガリア人が両側から奇襲し、先頭と後尾が谷から出られないようにした。カエサルの記述では、サビヌスは取り乱して隊から隊へと走り回り、効果のない命令を出し、コッタは冷静だったとされる。数時間の戦闘ののち、サビヌスはアンビオリクスと談判して降伏の条件を探ろうとしたが、コッタはこれを拒んで戦い続けた。武器を捨てて交渉に入ったサビヌスの一行を、ガリア人はじわじわと取り囲み、一気に襲いかかって皆殺しにした。コッタと多くの兵もこの虐殺で命を落とし、1個軍団は全滅した。わずかな兵だけがティトゥス・ラビエヌスの陣営へ逃れて、惨事を伝えた(アドゥアトゥカの戦い)。この痛恨事をカエサルは決して忘れず、のちにエブロネス族は根絶やしにされたという。
同じ年に亡くなった人物
- ミトラダテス3世 (紀元前54年没)
- ユリア (ガイウス・ユリウス・カエサルの娘) (紀元前54年没)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス (紀元前98年の執政官) (紀元前 54年)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス (紀元前 54年)
- アリオウィストゥス (紀元前54年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール2世 (ブルボン公) (1503年没)
- Dumnorix (紀元前53)
- Jean Laurent (1995年没)
- アウィトゥス (457年没)
- ジャン2世 (ブルボン公) (1488年没)