伝記
マーガレット・オブ・イングランドは、スコットランド王アレグザンダー3世の王妃である。1240年9月29日、イングランド王ヘンリー3世と王妃エレノアの間の第2子として、ウィンザー城で生まれた。後のエドワード1世の姉にあたり、長女であった。アレグザンダー3世の父アレグザンダー2世の最初の王妃ジョーンは、マーガレットの父方の叔母である。
1244年、父ヘンリー3世とアレグザンダー2世はニューカッスルで会って両国の関係を修復し、のちのアレグザンダー3世とマーガレットを結婚させることが決まった。マーガレットはこの年に婚約した。1251年12月25日または26日、11歳のマーガレットはヨーク・ミンスターで、10歳の王アレグザンダー3世と結婚した。二人は翌年1月までヨークにとどまり、その後エディンバラに移った。
スコットランドでのマーガレットは不幸だったといわれる。幼い夫婦に床を共にさせるのはふさわしくないとされたため、夫とめったに会えず、夫に好印象を持ち、親しみを感じていたマーガレットは不満だった。王城もエディンバラも気候も好まず、イングランドと家族を恋しがって、不満を両親に書き送った。両親は娘の訪問を求めたが、帰らなくなるおそれがあるとしてスコットランド側は許さなかった。1255年、王妃エレノアは侍医をエディンバラへ遣わして様子を調べさせた。侍医は、マーガレットが青ざめて沈み、孤独と冷遇を訴えていると報告した。父はさらに使節団を送り、スコットランドの伯たちに書簡を出して、もっと良く扱うよう求めた。マーガレット自身も、囚人のように閉じこめられていると使節に訴えた。こののちイングランド王とスコットランドの摂政会議は合意に達し、14歳になった二人は結婚を完成させてよいこと、7年後に摂政会議が権力を王に返すこと、王が妃に愛情を示し、両親を訪ねる自由を認めることが決まった。同じ1255年9月7日、マーガレットとアレグザンダー3世は、ウォークで両親と妹ベアトリスを訪ねた。
1257年には、外国人をスコットランドから追放するよう求めたカミン家に、夫妻はとらえられて捕虜となったが、父と摂政会議の働きかけで解放された。1260年から61年にかけては、娘マーガレットを産むためにイングランドを訪れ、1264年には長男アレグザンダーが生まれた。1272年には、妊娠中だったために父ヘンリー3世の葬儀には出られなかった。1273年の夏、次男デイヴィッドの出産後に静養していたパース近くのキンクラヴェン城で、川辺を散歩中に、ある事件が起きた。夕食のあと、手の泥を洗いに川へ下りたイングランド人の従者を、マーガレットが冗談のつもりで川へ押したところ、激しい流れにさらわれ、救おうと飛びこんだ少年とともに溺れ死んだのである。従者は、マーガレットの叔父シモン・ド・モンフォールをイーヴシャムの戦いで殺したと噂された若者であった。マーガレットはこの出来事にひどく心を痛めたといわれる。1274年8月には、夫妻でエドワード1世の戴冠式に出席した。マーガレットは1275年2月26日、カパー城で亡くなり、ダンファームリン修道院に葬られた。
三人の子はいずれも早世し、デイヴィッドは1281年に、娘マーガレットは1283年に、アレグザンダーは1284年に没した。娘はノルウェー王エイリーク2世の王妃となり、スコットランド女王マーガレットの母になった。そのため、アレグザンダー3世の死後、スコットランドでは王位継承者をめぐる問題が始まることになった。
同じ年に亡くなった人物
- エリナー・オブ・レスター (1275年没)
- ペニャフォールのレイモンド (1275年没)
- ゾフィー・フォン・ブラバント (1275年没)
- John Palaiologos (1275年没)
- フェルナンド・デ・ラ・セルダ (1275年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクター・ブルース (第9代エルギン伯爵) (1917年没)
- ジョン・プレイフェア (1819年没)
- ジョン・バーネット (1928年没)
- キャサリン・ギブソン (2013年没)
- ジョン・スミス (植物学者) (1888年没)