伝記
ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルドは、1866年10月12日、スコットランド北東部のマレー湾沿岸の港町に生まれた政治家で、イギリス史上初の労働党出身の首相である。出生名はジェームズ・マクドナルド・ラムゼイといい、農場労働者のジョン・マクドナルドと家政婦のアン・ラムゼイの間に私生児として生まれた。地元ロシーマスの自由教会の学校とドレーニー教区学校で学び、1881年に15歳で学校を辞めて農場で働き始め、生徒教師にも任命された。1885年にブリストルへ移って民主連盟に加わり、翌1886年にロンドンへ出た。
ロンドンでは封筒の宛名書きの仕事がわずか4週間で失業となり、同年5月から倉庫で請求書係として働いた。議会制度を通じて社会主義の理想を進めようとする社会主義連合に精力的に参加し、1887年11月の血の日曜日事件をトラファルガー広場で目撃して、冊子を出版した。1888年3月にはロンドン在住のスコットランド人の会合で、スコットランド自治協会のロンドン委員会を設立する提案をしている。この委員会は在ロンドンのスコットランド人にはほとんど支持されなかったが、本人はスコットランドへの関心を失わなかった。1880年代には政治より学業を重んじ、バークベック文理学園で植物学や数学、物理学などを学んだものの、試験の1週間前に過労で倒れ、学者への道は絶たれた。1888年には急進派の政治家の私設秘書になり、その人物が1892年に自由党の庶民院議員に選ばれると、急進主義の新聞社や労働者の政治家が集まるクラブに出入りして、選挙活動の経験を積んだ。やがてフリーランスのジャーナリストとなり、フェビアン協会の会員としてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでも講演した。
1893年に独立労働党に入党し、労働党代表委員会の主事、初代の労働党書記長を務めた。1895年の総選挙は落選したが、1903年に自由党幹部ハーバート・グラッドストンと交渉して、30選挙区で互いに対立候補を立てない秘密協定を結ぶことに成功した。1906年に庶民院議員に初当選し、1911年に労働党党首となる。1914年に第一次世界大戦が始まると平和主義者として参戦に反対し、党首の座を追われた。1922年の党首選に立候補してクラインズを破り、再び党首となった。
1923年の総選挙は、保守党が第一党、労働党が第二党、自由党が第三党という三党鼎立となり、どの党も過半数を取れなかった。1924年1月、自由党が労働党政権の発足に協力する姿勢を見せて、保守党は信任投票に敗れた。1月22日、国王ジョージ5世はマクドナルドに組閣を命じ、彼は首相兼外務大臣に就任した。自由党の閣外協力に頼る少数与党だったため、基幹産業の国有化は見送り、漸進主義で慎重に社会改良を進めた。失業手当の増額や労働者向け賃貸住宅の建設を進め、外交ではソ連と国交を樹立した。ただ、対ソ条約をめぐり、保守党と自由党は労働党の急進左派が政府に圧力をかけたのではないかと疑った。
内閣は議会で敗れ、マクドナルドは庶民院を解散して総選挙に臨んだが、選挙期間中に、ソ連のコミンテルンがイギリス共産党に武装蜂起を指示したとされるジノヴィエフ書簡が新聞に載り、左翼への警戒が広がった。選挙は保守党が過半数を制し、第一次内閣は10か月で崩壊した。この書簡の真相について、イギリスの情報機関による政治工作だったことが近年明らかになったとされる。党首のまま、1929年から1935年にも首相を務めた。1937年11月9日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- エーロ・ヤルネフェルト (1937年没)
- ガストン・ドゥメルグ (1937年没)
- ハイク・ベジシカン (1937年没)
- アルフレッド・アドラー (1937年没)
- エリフ・トムソン (1937年没)
同じ地域に関係する人物
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- ドナルド2世 (スコットランド王) (900年没)
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