伝記
ジェームス・マシュー・バリーは、1860年5月9日、スコットランドのアンガス地方キリミュアで、保守的なカルヴァン主義の家庭に生まれた。父デイヴィッドは織工としてまずまずの成功を収め、母マーガレット・オグルヴィは8歳で母を亡くして家事をこなしていたとされる。10人きょうだいの9番目で、背は平均より低く、物語を作るのが好きな子だった。6歳のとき、母のお気に入りだった兄デイヴィッドが14歳の誕生日の前日にアイススケートの事故で亡くなった。母は深く落ち込み、バリーは兄の服を着たり口笛をまねたりして兄の代わりに気に入られようとした。のちに母の回顧録に、母の部屋に入ると「あなたなの」と言われ、「違うよ、彼じゃない。僕だよ」と答えたと記している。母は、亡くなった少年は永遠に少年のままでそばにいると考えて自分を癒したという。
8歳のころ、兄アレクサンダーと姉メリーアンが教師を務めるグラスゴー・アカデミーに手伝いのため家を出た。10歳で家に戻りフォーファー・アカデミーに通い、14歳でダンフリーズ・アカデミーに進学して、再び兄姉と暮らした。読書に熱中し、ダンフリーズでは友人たちと庭園で海賊ごっこに興じた。この経験が、のちの戯曲『ピーター・パン』を書く原点となった。友人と演劇クラブを作って『山賊バンデレロ』を上演したが、内容がモラルに反するとして学校理事会から批判された。家族は牧師などの職を勧めたが、バリーは作家になりたいと願い、兄の助言で大学に進み、エディンバラ大学で文学を専攻して学内紙に劇評を寄せた。1882年4月21日に文学修士を得て卒業した。
姉妹が新聞で見つけた求人でノッティンガムの新聞社に1年半勤めたあと、キリミュアに戻り、母が幼少期を過ごした町を題材にした物語をロンドンの新聞に寄稿した。編集者がスコットランドものを好んだため連載となり、これが最初期の小説『オールド・リヒト物語』(1888年)、『スラムズの窓』(1890年)、『小牧師』(1891年)の基になり、バリーは人気作家となった。1885年にロンドンへ出て文筆に専念している。舞台への興味を深め、1891年にはイプセンの作品を戯曲にしたパロディ『イプセンの幽霊』を書いた。これを劇場で観たイプセンの翻訳者ウィリアム・アーチャーが気に入って推薦し、劇作3作目の上演に際して若い女優メアリー・アンセルが紹介された。二人は1894年7月9日に結婚した。
1900年ごろから劇作を始め、1901年から1902年にかけてヒット作が続いた。『あっぱれクライトン』は、貴族の一家と使用人たちが無人島に漂着して立場が逆転する物語である。1902年の小説『小さな白い鳥』にピーター・パンが初めて登場した。ケンジントン公園で知り合ったルウェリン・デイヴィス家の息子たちとの出会いが、この作品を書くきっかけになったとされる。1904年12月27日、最も有名な戯曲『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』が初演された。「ウェンディ」の名は、友人の娘がバリーを「フウェンディ」と呼んだことから着想されたという。ジョージ・バーナード・ショーは、子供向けのクリスマス劇のようだが実際は大人向けだと評した。デイヴィス夫妻の死後、バリーは非公式に彼らの息子たちを養子にした。1909年に離婚し、1913年にはジョージ5世から准男爵の爵位を受け、1922年にメリット勲章を授与された。1929年にはピーター・パン関連作品の権利を、ロンドンのグレート・オーモンド・ストリート子供病院に寄贈した。1937年6月19日に死去した。
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