HISTORICAL PERSON · 紀元前55年没

ティグラネス2世

アルメニアの王で大王と呼ばれた。パルティアの弱体化に乗じてメディアやシリアへ勢力を広げ諸王の王を称したが、後半にローマに敗れ征服地の大半を失った。

生涯
紀元前55年没
死亡地
トルコ共和国(ヴァン県 / アルメニア王国)
出生地
アルメニア共和国(アルタハタ)
出典
世界地図
トルコ共和国(ヴァン県)

伝記

ティグラネス2世は、紀元前140年に生まれたアルメニア王(在位紀元前95年頃〜紀元前55年)で、アルタクシアス朝の一員である。ティグラネス大王とも呼ばれる。アルタウァスデス1世の息子とも甥ともいわれ、両説が並び伝わる。紀元前120年頃、パルティア王ミトラダテス2世がアルメニアに侵攻し、アルタウァスデス1世にパルティアの宗主権を認めさせた際、人質としてパルティアへ送られた。首都クテシフォンの宮廷でパルティアの文化と言語を学んだとされる。のちミトラダテス2世によってアルメニア王に擁立されたが、その際に「七十の谷」と呼ばれるカスピアネの地域を割譲した。ただし古代の著述家は、アルメニアに対するパルティアの宗主権について何も語っていない。娘アリアザテがパルティア王家に嫁いだことで両国の関係は保たれ、彼は80年代の終わり頃までパルティアの従属下にあったとされる。

即位した時点で、王国の基盤はすでに初代アルタクシアス1世以来の歴代の王によって整えられていた。ただアルメニアは山がちで、地方ごとにナハラルと呼ばれる封建的な有力者の影響が強く、中央集権的な帝国を望む彼はまず国内の権力固めに取り組んだという。ソフェネ王国の最後の王アルタネスも廃した。パルティアが政治的混乱に陥ると影響力は弱まり、自立を強めた彼はポントス王ミトリダテス6世と同盟を結び、その娘クレオパトラを娶った。第一次ミトリダテス戦争(紀元前89〜85年)の間、彼はミトリダテス6世を支持しつつも、直接の参戦には慎重であったとされる。

パルティアの混乱に乗じてメディア地方に侵攻し、中心地エクバタナを占領した。さらにメソポタミア北部を通ってセレウコス朝を攻め(紀元前83年)、勝利してシリアの大半を支配下に収めた。ティグリス川の北に新首都ティグラノケルタを建設し、「諸王の王」の称号を刻んだ硬貨を発行した。最盛期の領土はポントス山脈からメソポタミアまで、カスピ海から地中海にまで及んだという。征服した都市の住民の多くは新首都へ強制移住させられた。ギリシア文化を好み、修辞学者や哲学者を宮廷に招いたとされ、首都はヘレニズム風の建築で知られた。

しかし三次にわたるミトリダテス戦争で敗れたミトリダテス6世がアルメニアへ逃げ込んだことで、状況は一変した。ローマの将軍ルクッルスは彼の引き渡しを求めたが、ティグラネスは拒否してローマに対抗する姿勢を示した。紀元前69年にティグラノケルタは包囲されて放棄を余儀なくされ(ティグラノケルタの戦い)、翌紀元前68年にはアルタクサタの戦いでも敗れた。パルティアに援軍を求めたが、同じ頃ローマもパルティアに同盟を持ちかけており、プラアテス3世は曖昧な返事しかしなかったという。ルクッルスが撤退すると一息つけたものの、アルメニアでは息子の小ティグラネスが反乱を起こした。これは鎮圧されたが、小ティグラネスは今度はローマのポンペイウスのもとへ逃れた。紀元前66年、ポンペイウスの侵攻を受けた彼は降伏した。アルメニアの中心部はローマの緩衝国として保たれたが、それ以外の征服地はすべて失った。

以後はローマの従属王としてアルメニアを治め、紀元前55年頃、85歳で世を去った。跡は息子のアルタウァスデス2世が継いだ。ルクッルス到着の凶報を届けた使者の首をはねたため、以後は真実を告げる従者がいなくなったという故事があり、この話はシェイクスピアの作品でたびたび言及される。

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