HISTORICAL PERSON · 1937年没

ピエール・ド・クーベルタン

フランスの教育者。古代オリンピックを復興させ、近代オリンピックの基礎を築いた創立者として知られる。

生涯
1937年没
死亡地
スイス連邦(ジュネーヴ州 / ジュネーヴ)
出生地
フランス共和国(7区)
出典
世界地図
スイス連邦(ジュネーヴ州)

伝記

ピエール・ド・クーベルタンは、1863年1月1日にパリ7区のウディノ通りの自宅で、父シャルル=ルイと母アガート=マリー=マルセルの第4子として生まれた教育者で、近代オリンピックの創立者である。正式にはクーベルタン男爵シャルル=ピエール・ド・フレディといい、両親はともに貴族の家系だった。父は熱心な王党派の画家で、パリのサロンで作品が展示され賞も受けており、その業績でレジオンドヌール勲章のシュバリエを受けた。母方のジゴー家は、ルイ18世の時代に祖父エチエンヌ=シャルル・ジゴーが世襲男爵の地位を得ている。3人の兄姉がいたが、みなクーベルタンとはかなり年が離れていた。

クーベルタンは、当時設立されたイエズス会系の通学式の中等学校に7年間通い、1880年に文学の、1881年には科学のバカロレアを取得した。同級生のなかで成績は上位3人に入り、厳しいイエズス会の教育によく適応していたと考えられる。両親の希望もあってサン・シール陸軍士官学校に入学したが、半年で退学した。当時の貴族の振る舞いとして実業に関わることを許されなかった彼は、父の希望を渋々聞き入れて自由政治科学学院に入った。この間に何度かイギリスへ渡り、1883年に20歳で初めて訪れた際にはラグビー校を見学して強い感銘を受けた。トーマス・アーノルドのもとで行われた体育の課程を研究し、ラグビー校を舞台にした小説『トム・ブラウンの学校生活』にも心を動かされた。スポーツを通じて公正さや道徳を学んだ生徒は、大人になってもその教訓を生かせるという考えである。ワーテルローの戦いでイギリスがフランスに勝ったのは、パブリックスクールの心身を鍛える教育の成果だとの記述も残している。フランスの学校に体育を取り入れることは、生涯にわたる関心事となった。

歴史書の描くオリュンピアの祭典に感銘を受け、「ルネッサンス・オリンピック」の演説の中で近代オリンピックを提唱した。賛同者によって国際オリンピック委員会が設立され、1896年のアテネ大会の開催につながった。のちに委員会の事務局長、第2代の会長を務めた。五輪のマークも考案し、1914年6月17日にパリで開かれたオリンピック会議でマークと旗を示し、委員会によって正式に採用された。1912年の第5回ストックホルム大会では、近代五種競技が彼の考案と提唱により種目に採用された。同じ大会の芸術競技文学部門には、筆名を用いて『スポーツ賛歌』と題したドイツ語・フランス語の詩を応募し、金メダルを獲得した。委員会は作品とメダルの帰属を公式にクーベルタンのものとしているが、ドイツからの応募だったため、受賞者の国籍はドイツのままとなっている。

「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」という言葉は有名だが、彼が考え出したものではなく、1908年のロンドン大会の際に、聖公会の主教エセルバート・タルボットがアメリカの選手たちに語った言葉だった。クーベルタンはこれに感銘を受け、各国の関係者を招いた晩餐会のスピーチで引用し、そこから彼の演説として広まった。一方で、女性のスポーツや女性の世界大会には反対し、女性の役割は勝者に栄冠を与えることであるべきだと述べていた。ナチスのヒトラーに利用されたベルリン大会を称賛したことも、批判の対象となっている。1922年のノーベル平和賞の候補に挙がったこともある。1937年9月2日に死去し、遺言により、オリンピック発祥の地に心臓を埋葬するよう定められ、1938年3月にオリンピアで埋葬式が行われた。

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