伝記
イーディス・ウォートンは、1862年1月24日、ニューヨークのマンハッタンにある褐色砂岩の邸宅で、ジョージ・フレデリック・ジョーンズとルクレティア・スティーヴンス・ラインランダーの娘として生まれたアメリカの女性小説家である。旧姓はジョーンズで、友人や家族には「プッシー・ジョーンズ」と呼ばれた。二人の兄がいて、兄フレデリックの娘は、のちの造園家ベアトリクス・ファーランドである。父方のジョーンズ家は不動産で財をなした裕福で社会的地位の高い一族で、「ジョーンズ家に負けまいとする」という成句は、この家に由来すると言われる。母方の曾祖父は、独立戦争の英雄で将軍だったエベニーザー・スティーヴンスである。南北戦争の最中に生まれたが、家族の暮らしを語るときに、戦争のことには触れていない。戦後の通貨の下落を理由に、1866年から1872年まで一家はフランス、イタリア、ドイツ、スペインを旅し、少女はフランス語、ドイツ語、イタリア語に堪能になった。9歳のとき、黒い森の湯治場でチフスにかかり、死にかけた。1872年に帰国してからは、冬をニューヨーク、夏をロードアイランド州ニューポートで過ごした。
教育は家庭教師と女性の養育係から受けた。結婚して社交界に出るための服装や作法の基準を、表面的で抑圧的なものと考えて退け、もっと学びたいと願って、父の書斎や父の友人の蔵書を読みふけった。母は結婚するまで「小説」を読むことを禁じ、少女はそれに従ったという。幼いころから物語を作って語る子で、4、5歳のころには、本を開いて頁をめくりながら即興で話を作って歩いたという。11歳で最初の小説を書こうとしたが、母の批評で意欲をくじかれ、詩に転じた。15歳で最初の作品が活字になり、ドイツ語の詩の翻訳で50ドルの報酬を得た。しかし家族は社交界の女性が書くのを好まず、名前は伏せられ、友人の父の名で発表された。1877年には秘かに中編小説を書き、1878年には父の手配で詩集が私家版で出版された。1880年には匿名で五つの詩が文芸誌に載ったが、家族や周囲に励まされず、1889年に別の詩が雑誌に載るまで、何も発表しなかった。
1879年に社交界にデビューし、12月の舞踏会で初めて肩を出し、髪を結い上げることを許された。1880年代は執筆を脇に置いて上流階級の社交に加わった。その間に、周囲で起こる社会の変化を鋭く観察しており、のちの作品に活かされた。1881年に父の健康のため一家は再びヨーロッパへ渡り、父は1882年に脳卒中でカンヌで亡くなった。1885年にボストンの銀行家ウォートンと結婚し、1907年にパリへ移住して、ほぼ同地で過ごしたが、1913年に離婚した。ヘンリー・ジェイムズと親しく交わり、1905年に『歓楽の家』を発表して、自然主義を近代化した洗練された作風で、上流社会の恋愛風俗を風刺的に描いた。ほかに中編『イーサン・フローム』や、いくつもの怪談でも知られ、短編の名手でもあり、「ローマ熱」は特に名作とされる。1920年発表の『エイジ・オブ・イノセンス』で、女性として初めてピューリッツァー賞の小説部門を受賞した。1937年8月11日に没した。1996年には全米女性の殿堂入りを果たしている。
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