伝記
ルイ9世は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位1226年から1270年)である。1214年4月25日に生まれ、1270年8月25日に没した。ルイ8世と、カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子で、死後にカトリック教会から列聖されたことで、サン=ルイ(聖ルイ、聖王ルイ)と呼ばれる。アメリカ合衆国の都市セントルイスの名の由来であり、ブルボン家の先祖でもある。
1226年に父王の死で12歳のまま即位し、母ブランシュが摂政をつとめた。ブランシュは優れた政治手腕でアルビジョア十字軍を続け、諸侯の反乱を抑えた。幼い王のもとで諸侯の反抗や陰謀がしばしば起こり、1228年の反乱では、一時ルイ9世が捕らえられる危機にもあったが、都市の市民の支援を受け、これを恐れた反乱諸侯は撤退した。1229年にトゥールーズ伯レーモン7世とパリ条約を結んでアルビジョア十字軍を終わらせ、同年5月27日、サンスでプロヴァンス伯の長女マルグリットと結婚して親政を始めた。のちにマルグリットの妹たちは、イングランド王ヘンリー3世や、ルイの弟でシチリア王となるシャルル・ダンジューらと結婚している。
1241年、ラ・マルシュ伯ユーグ10世の妻でヘンリー3世の母イザベルが、ルイの弟アルフォンスへの臣従の際に単なる臣下の妻として扱われたことに激怒し、夫と息子を扇動してポワチエで反乱を起こさせた。ルイが鎮圧を始めると配下の城は次々に降伏し、イングランド諸侯はヘンリー3世を見捨てて帰国した。ヘンリー3世は、失っていたノルマンディーやアンジューを正式に放棄する代わりに、ガスコーニュの領有を認められるという寛大な条件で和解した。1243年にはアラゴン王ハイメ1世も含めて和平協定が結ばれ、以降ルイの在位中、国内外の平和が続いた。
平和を取り戻すと、ルイは悲願の十字軍を計画した。1244年にエルサレムが再びイスラム教勢力に陥落し、皇帝フリードリヒ2世は教皇と対立し、ヘンリー3世は国内の反乱の対処に忙しく、西欧で遠征に行ける余裕があるのはルイだけだった。国内にも反対は強かったが、彼は押し切って1248年に出発した。アイユーブ朝のエジプトを攻撃したものの敗れて捕虜となり、占領地を全て放棄し、莫大な身代金を支払って撤退した。のちに聖地エルサレムへ巡礼し、1253年にはイスラム教に対する同盟国を求めて、フランシスコ会員ウィリアム・ルブルックをモンゴルへ派遣した。
一方で「ヨーロッパの調停役」として、皇帝と教皇の対立や教皇庁内部の対立を調停し、1264年には第2次バロン戦争でヘンリー3世とイングランド諸侯を調停した。内政では、地方監察官の創設、貨幣の統一、裁判制度の整備、私戦の禁止などを行った。また、キリストの被ったイバラの冠を高額で購入し、それを納めるためサント・シャペルを建てた。各地に救貧院を作り、自ら貧者に食物を与えて足を洗い、人々が神にかけて誓うことを禁じた。
晩年には健康の不調から先が長くないと感じ、再び十字軍を起こそうとして、1270年に出発しチュニジアを攻撃した。だが水が劣悪で暑さもあり病気がはびこり、ルイもチュニスで病に倒れ、陣中で没した。最期の言葉は「エルサレム」だったという。息子フィリップ(3世)が王位を継ぎ、ルイは没後27年の1297年に列聖された。騎士ジャン・ド・ジョアンヴィルによる伝記『聖王ルイの生涯』が残る。
同じ年に亡くなった人物
- Isabelle of France (1270年没)
- シーインタラーティット (1270年)
- サンボル2世 (1270年代没)
- ダヴィト7世 (1270年没)
- モンフォールのフィリップ (1270年没)
同じ地域に関係する人物
- イブン・サイード・マグリビー (1276年没)
- マゴ (紀元前150)
- J.H.ペイン (1852年没)
- ベジ・カイドセブシ (2019年没)
- Saint Aurelius (430年没)