HISTORICAL PERSON · 430年没

Saint Aurelius

カルタゴの司教でアウグスティヌスの友人。419年の公会議でアフリカ教会の教会法典をまとめ、ペラギウス主義を早くから非難した。

生涯
430年没
死亡地
チュニジア共和国(チュニス県 / カルタゴ)
出生地
—
出典
世界地図
チュニジア共和国(チュニス県)

伝記

聖アウレリウスは、カルタゴの主教を務めたキリスト教の聖人で、430年頃に没した。ヒッポのアウグスティヌスの友人であり、391年頃から没するまでカルタゴの主教の座にあったとされる。主教としての活動を離れた生涯については、あまり知られていない。

アウグスティヌスが388年にアフリカへ戻ったとき、アウレリウスは助祭であった。アウレリウスは、ヒッポにいたアウグスティヌスの後援者となった。アウグスティヌスは修道共同体の設立を望み、その場所は主教ウァレリウスが提供し、費用はアウレリウスが出した。アウレリウスはこの修道院に、主教になるための訓練を受ける新しい成員を送り込み、修道院は一種の初期の司教養成所のようなものになった。アウグスティヌスはアウレリウスを敬愛しており、アウグスティヌスからアウレリウスに宛てた手紙が数多く残っている。アウグスティヌスのヒッポ主教選出に際しては、年老いたウァレリウスに代わってその選出を後押ししたとも伝えられる。アウレリウスはアウグスティヌスをたびたびカルタゴに招き、説教や公会議の議論に加わらせた。

アウレリウスは392年頃にカルタゴの主教となり、教義と聖職者の規律をめぐる多くの教会会議を主宰した。なかでも419年の会議は重要で、「アフリカ教会の教会法規集」がまとめられた。聖職者や信徒の風紀と教会の規律の強化に努め、偶像や見世物を例外なく禁じようとして、カエレスティス神殿を占拠するまでに至ったという。またアウグスティヌスとともにドナトゥス派やペラギウス派と戦い、ペラギウス主義をいち早く非難した主教の一人であった。ペラギウス派の異端を黙認していた教皇ゾシムスに対しては、アフリカの主教たちの支持を得て強硬に反対し、418年には教皇がペラギウス派を断罪せざるを得なくなった。419年にはペラギウスとコエレスティウスの断罪について、ビュザケナ州とアルズゲス州の全主教に宛てた回状も出している。殉教者の崇敬を奨励し、聖キプリアヌスの祝日を導入した。

アウレリウスの教養は乏しく、言葉づかいは粗野で誤りが多かったともいわれるが、それでもアフリカ教会で最大の威信を保った。書簡の多くは失われ、短い講話のほかには回状が残る。アウグスティヌスとほぼ同時に亡くなり、ヴァンダル族の侵入の時代であったため、アフリカのカトリック教会はアリウス派に対して弱い立場に置かれた。遺物はドイツのヒルザウ修道院に保存されている。ローマ・カトリック教会での祝日は7月20日である。

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