伝記
マルガレータ・フォン・シュタウフェンは、ホーエンシュタウフェン家に生まれたシチリア王女で、のちにテューリンゲン方伯妃となった人物である。父は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世、母はその3番目の妃イザベラ・オブ・イングランドである。生年ははっきりしない。1237年末に生まれたとも、1236年末から1237年にかけてグラーツで生まれたともいわれ、母イザベラは1241年12月に亡くなっており、父が義弟のイングランド王ヘンリー3世に送った手紙には、生き残った子は男の子と女の子の一人ずつと書かれている。母はマルガレータの出産で亡くなったとする説もあり、その場合の生年月日は1241年12月1日、場所はフォッジャとなる。
最初の婚約は1238年で、相手はテューリンゲン方伯ヘルマン2世だった。教皇インノケンティウス4世の手紙では、マルガレータはこのとき2歳とされる。しかし1239年にヘルマンの側から婚約を取り消され、ヘルマンは同じ年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のヘレーネと結婚した。1242年、マルガレータはマイセン辺境伯ハインリヒ3世の息子で後継者のアルブレヒトと婚約した。アルブレヒトは「退廃公」とも呼ばれる。持参金には、アルテンブルク、ツヴィッカウ、ケムニッツ、ライスニヒなどを含む、プライセンラントが与えられた。結婚式は1254年から1256年の間に行われたとされ、1255年6月とする説もある。夫妻はまずエッカルツベルガのエッカルツブルク城に住み、のちにヴァルトブルク城に移った。二人の間には3人の息子と2人の娘、合わせて5人の子が生まれたとされる。息子には、1256年生まれのハインリヒ、1257年生まれのフリードリヒ1世、1260年頃生まれのディートリヒ4世がおり、娘のアグネスはブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン侯ハインリヒ1世に嫁いだ。
1265年、アルブレヒトは父の退位によってテューリンゲン方伯とザクセン宮中伯の位を継いだ。父はマイセンの支配を手放さず、アルブレヒトがマイセン辺境伯となったのは1288年のことである。1268年10月29日には、異母兄コンラート4世の子コンラディンが処刑された。この結果、マルガレータは最も近い血縁として、シチリア王位とシュヴァーベン公領、エルサレム王国に対するシュタウフェン家の主張を受け継ぐ立場になったとされる。息子のフリードリヒ1世が、しばらくの間、母の権利にもとづく称号を名乗った。
夫アルブレヒトは、マルガレータの侍女だったクニグンデ・フォン・アイゼンベルクを愛妾にした。クニグンデはアルブレヒトも知るなかで、何度かマルガレータの毒殺を試みたともいわれる。マルガレータは1270年6月24日にヴァルトブルクを去った。そのとき息子フリードリヒの頬を噛んだという伝説があり、フリードリヒは以後「噛まれた者」(噛跡公)と呼ばれるようになったという。マルガレータはまずテューリンゲンのクライエンブルク城に向かい、クロイツベルク修道院(現在のフィリップスタール)、フルダを経て、最後にフランクフルト・アム・マインに移った。ヴァイスフラウエン教会に身を寄せ、市民の支えを受けたが、約6週間後の8月8日に亡くなり、教会に葬られた。第二次世界大戦で破壊された教会を1953年に取り壊したとき、発掘で約70の墓が確認されたが、マルガレータの墓は見つからなかった。
同じ年に亡くなった人物
- マリア・ラスカリナ (1270年没)
- ダヴィト7世 (1270年没)
- ルイ9世 (フランス王) (1270年没)
- モンフォールのフィリップ (1270年没)
- コンラト1世 (グウォグフ公) (1270年代没)
同じ地域に関係する人物
- マリア・アンナ・フォン・プロイセン (1918年没)
- オスカー・バルナック (1936年没)
- ルートヴィヒ・カール・ゲオルク・プファイファー (1877年没)
- ヨハン・カール (プファルツ=ゲルンハウゼン公) (1704年没)
- ロブ・ピラトゥス (1998年没)