伝記
テオバルド2世は、1238年頃(1239年ともいう)に生まれたナバラ王であり、シャンパーニュ伯でもあった。シャンパーニュ伯としてはティボー5世と呼ばれ、「若年王」の異名をもつ。父はナバラ王テオバルド1世、母は父の3番目の妃マルガリータ・デ・ボルボーン(マルグリット・ド・ブルボン)で、その長男にあたる。1253年に父が死ぬと、14歳か15歳で王位と伯位を継いだ。幼い王のために母が1256年まで摂政を務めた。ナバラでは成年が21歳と定められており、それまでは後見人の助言なしに裁判を行えず、その後見人も十二人の有力貴族の評議会の意見を聞かねばならなかったという。
即位直後から、小さなナバラ王国は二つの大きな隣国に脅かされた。まずアラゴン王がナバラへの宗主権を主張してエブロ川沿いに軍を集めると、テオバルドもトゥデラ城の近くに軍を集めて備えた。両王が会見すると、関係はひとまず和らいだ。次にカスティーリャが敵対的になったが、ナバラ、アラゴン、カスティーリャの三王があらためて会って事態は収まった。1255年には外交によって、カスティーリャ王にナバラへの権利の主張を取り下げさせている。同じ年、ムランでフランス王ルイ9世の王女イザベルと結婚した。この結婚の条件の一つは、父の最初の遺言に基づいて王位を求めていた姉ブランシュ(ブルターニュ公妃)と和解することだった。テオバルドは姉夫婦に三千リーヴルを支払い、夫婦はナバラの王冠への要求を放棄した。
1257年には、教皇からフランス式の塗油と戴冠の儀を取り入れる許しを得て、パンプローナで二度目の戴冠を受けた。摂政下で行われた1253年の戴冠をあらためて確かめ、王権に宗教上の正統性を与えるためである。この年パリのサン=タンドレ=デ=ザール教区に土地を手に入れ、「ナバラ館」と呼ばれる邸を建てはじめた。邸は1260年に完成した。義父となったルイ9世とは親しく、王は彼を息子のように扱い、外交面でも仲裁役を務めた。ナバラが輸出に使うフエンテラビアとサン・セバスティアンの港を、テオバルドの存命中は使ってよいと許したのもルイ9世である。1258年にリュクスイユ修道院の保護者となると、バル公が武力に訴えかねないほど怒ったが、ルイ9世が介入して争いを収めた。1259年にはルイ9世とともにアンゲラン・ド・クシーの裁判に立ち会っている。1260年にはリュクスイユ周辺の領地をジャンとユーグのシャロン兄弟に奪われ、取り返せなかった。
その後もテオバルドは国の運営に力を注いだ。王室財政の整備を進め、王国で初めての人口調査を行っている。1266年の会計では、収入の6.75%が民政、33.84%が軍事、59.6%が王室に充てられていた。外では、バル地方のリニィをめぐる争いが起きた。リニィの領主がシャンパーニュ伯の宗主権を認めたことに怒ったバル公は、フランドル伯ギー・ド・ダンピエールとメス司教を味方に呼び、リニィを占領した。ナバラから戻ったテオバルドは報復としてバル地方に攻め込み、ショワズルの地を荒らした。ビゴール伯領については、モンフォールの権利を買い取って継承を主張したが、ほかの二人の候補者と争い、ルイ9世の仲介で休戦となった。
1270年、テオバルドはルイ9世が率いる第8回十字軍に加わった。ルイ9世は遠征先のチュニジアで8月に病死し、帰途についたテオバルドも12月4日にシチリアのトラパニで病死した。跡継ぎはなく、弟のエンリケ(アンリ)が王位と伯位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ダヴィト7世 (1270年没)
- Isabelle of France (1270年没)
- サンボル2世 (1270年代没)
- トマ・ド・カンタンプレ (1270年)
- コンラト1世 (グウォグフ公) (1270年代没)
同じ地域に関係する人物
- サルヴァトーレ・ジュリアーノ (1950年没)
- グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官) (紀元前81年没)
- Manfred of Athens (1317年没)