HISTORICAL PERSON · 紀元前81年没

グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)

民衆派の家に生まれ、紀元前85年・84年・82年と三度執政官を務めた。マリウス・キンナ派に加わってローマ包囲軍の一つを率い、若いポンペイウスの弁護にも立ったが、スッラとの内戦に敗れて亡命した。

生涯
紀元前81年没
死亡地
イタリア共和国(トラーパニ県 / Lilibaeum)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(トラーパニ県)

伝記

グナエウス・パピリウス・カルボは、共和政ローマ末期の政務官である。紀元前85年、84年、82年と三度執政官を務め、スッラとの内戦を戦ったが敗れて亡命し、紀元前81年に処刑された。

平民系のパピリウス氏族の出身で、父グナエウスは紀元前113年の執政官であった。カルボ家はグラックス兄弟の時代から民衆派だった。紀元前112年、父は若い新貴族マルクス・アントニウスに訴えられて有罪となり、判決の後に自決した。カルボ自身が歴史に現れるのはその20年後で、紀元前92年に護民官となった。この年、執政官プルケルは、暴動が始まっても民会を解散しなかったとしてカルボを元老院に報告し、元老院はカルボが暴力的な行為を求めていたと認めた。同盟市戦争中の紀元前89年にルカニアで勝利した将軍カルボが彼であれば、そのころ法務官だったことになるが、従兄弟のカルボ・アルウィナである可能性もある。

紀元前88年、スッラがローマを占領して反スッラの有力者12人を国家の敵と宣言したとき、カルボもその一人だった可能性が高いとされる。1年後には民衆派の指導者の一人になっていた。紀元前87年、キンナとマリウスがローマを包囲した際には、4つの軍の一つを指揮した。ローマはマリウス派に降伏し、その直後、カルボはポンペイウス・ストラボの息子で18歳のグナエウス・ポンペイウス(のちのマグヌス)の弁護に立った。罪状は父がアスクルムで得た戦利品の横領で、ほかの弁護人とともに無罪を勝ち取った。紀元前86年にマリウスが死ぬとキンナが実質的な支配者となり、紀元前85年と84年にカルボを同僚執政官とした。

二人はミトリダテスへの勝利の目処をつけたスッラの帰還に備え、軍隊の募集や艦隊の修理、食糧と資金の調達を急いだ。紀元前84年初め、キンナとカルボはイリュリアへ軍を動かそうとしたが、兵士たちはローマ人同士の戦いを望まず、キンナは反乱した兵に殺された。北イタリアにいたカルボは、同盟都市の離反を防ぐために人質を集めたが、プラケンティアでは拒まれ、何も得ずに立ち去った。キンナの死後、補充執政官は置かず、カルボは年末まで単独で執政官を務めた。

紀元前83年にスッラが南イタリアに上陸し、18万から20万とされる両執政官の軍は別々に戦って敗れた。カルボはガリア・キサルピナの総督を務めていたが、ローマへ戻り、スッラ側へ走った元老院議員を国家の敵とするよう求めた。紀元前82年には小マリウスとともに執政官となり、神殿の宝物を没収して戦費を作り、戦争が終わっても国庫には金14,000リーブラと銀6,000リーブラが残ったという。この執政官選出に反対したセルトリウスを、二人はヒスパニアへ派遣した。しかしクルシウムの戦いは勝敗がつかず、フィデンティアの戦いで敗れ、3万の軍を残したままアフリカ属州へ逃れた。スッラは国家の敵の名簿の最初にカルボの名を挙げ、ポンペイウスに追わせた。ポンペイウスはパンテッレリーア島でカルボを捕え、死刑を命じた。刑場でカルボは、剣が抜かれているのを見て、腸の具合が悪いので用を足す時間がほしいと願ったという。処刑の様子は、泣き叫んだともいわれ、用を足している最中に斬られたともいわれ、首はスッラに送られた。キケロはカルボを悪い市民、悪い執政官、反逆者と述べ、ウァレリウス・マクシムスは「ラテン人の歴史に大きな汚点を残した人物」と評した。プルタルコスは、キンナよりも無謀な暴君と呼んでいる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物