伝記
ヘンリー・ブラクトンは、13世紀イングランドのローマ法学者で、聖職者であり裁判官でもあった。ヘンリー・ド・ブラクトンとも表記される。1210年ごろにデヴォンで生まれ、家名がブラクトンと表されるようになったのは没後のことで、生前はブラットンあるいはブレットンと呼ばれていた。出身地はデヴォンのブラットン・フレミングかブラットン・クロヴェリーのどちらかとされる。教会で多くの引き立てを受け、1245年には三つの聖職禄を同時に持つことを認める特免を得た。同じ1245年に裁判官として初めて名が現れ、1248年から死ぬまで、サマセット、デヴォン、コーンウォールなど南西部の州で巡回裁判官として継続的に働いた。主著『イングランドの法と慣習法』は、1250年から1260年の間に編纂されたとされる。
ブラクトンは国王の裁判所の一員でもあったが、1257年にそこを退いた。それは1258年にオックスフォードで開かれた議会の少し前のことで、引退が政治と関係していたかどうかはわからない。1259年にはデヴォンのクーム・イン・テインヘッドの教区司祭となり、1261年にはビデフォードの教区司祭となった。1264年にはバーンスタプルの副司教に任じられ、同じ年にエクセター大聖堂のチャンセラーにもなった。同じころ、第二次バロン戦争が始まった。この年にブラクトンは、手元に保管していた大量の訴訟記録を財務府に返すよう命じられ、前任の裁判官たちから受け継いだ記録も手放さねばならなかった。国王と貴族のどちらかに不興を買ったのかは確かめられないが、政治的な駆け引きがあったと推測されている。その結果、主著は未完のまま残ったが、今日も四巻の大著として伝わる。
ブラクトンは1267年まで南西部の巡回裁判に従い、最後の年には、シモン・ド・モンフォールに味方して所領を失った人々の訴えを聞く、高位聖職者・大貴族・裁判官からなる委員会の一員となった。ブラクトンは1268年ごろに死に、エクセター大聖堂の身廊の、自分の名を冠した祭壇の前に葬られた。自分の魂のためにソーヴァートンの荘園の収入を財源とする永代の祈祷の基金を設けていた。
主著の特徴は、国王裁判官の判決を500も引用していることにあり、ヘンリー2世のころの法官レイナルフ・グランヴィルの論文に比べて土地法の判例がきわめて多く載っている。ブラクトンはローマ法の概念を借りてイングランドの慣習を体系化しようとし、その際には註釈学派のアーゾ・ポルキウスの影響を受けた。刑事上の罪は行為と意図を合わせて調べて初めて認定されると論じ、国王については、権力を合法的に得て行使する者だけを王と呼ぶべきだと述べた。法学史家プラックネットは、グランヴィルから二世代を経て英国法学の精華にたどり着いたのがブラクトンだと評した。ブラクトンは法律家の仕事を、2世紀のローマの法学者ウルピアヌスの言葉を借りて正義に仕える聖職にたとえ、自らもその司祭になぞらえている。「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある。なぜなら、法が王を作るからである」という法諺は有名で、のちにコークが国王ジェームズ1世を諫める際に引用し、法の支配の確立にとって決定的になったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Thomas the Archdeacon (1268年)
- ピエトロ2世・ディ・サヴォイア (1268年没)
- クレメンス4世 (ローマ教皇) (1268年没)
- Hayme Hatun (1268年)
- コッラディーノ (1268年没)
同じ地域に関係する人物
- サミュエル・ベラミー (1717年没)
- ピート・クウェイフ (2010年没)
- ノーマン・ロッキャー (1920年没)
- チャールズ・エリオット (海軍士官) (1875年没)
- ジョージ・モンタギュー (1815年没)