HISTORICAL PERSON · 1268年没

ピエトロ2世・ディ・サヴォイア

聖職者から転じてサヴォイア家の勢力拡大に尽力した貴族。イングランドでリッチモンド領主となり、ロンドンにサヴォイ・パレスを建設した。

生涯
1268年没
死亡地
フランス共和国(イゼール県 / ピエール=シャテル)
出生地
イタリア共和国(スーザ)
出典
世界地図
フランス共和国(イゼール県)

伝記

ピエトロ2世・ディ・サヴォイアは、1203年にイタリアのスーザで生まれた。サヴォイア伯トンマーゾ1世の第7男で、兄にはのちに伯となるアメデーオ4世がいる。長男ではなかったため聖職者の道に進み、ローザンヌの律修司祭となり、1231年に新しい常任司教が指名されるまで代理司教も務めた。父が死ぬと、長兄アメデーオ4世にサヴォイア伯領のかなりの部分を要求したが、1234年にシヨン城で和解し、兄を家長と認めたうえでコルニヨン城とアンジュヴィル城を与えられた。兄グリエルモが取り決めたアニェス・ド・フォシニーとの結婚でも領土を得た。なお領土の拡大を望み、叔父のジュネーヴ伯ギヨーム2世と対立して、1236年ごろに従兄弟のロベール・ド・ジュネーヴに待ち伏せされ捕らえられた。この争いは1237年に終わった。

1240年、弟フィリッポがローザンヌ司教の選挙で争ったとき、ピエトロは6,000人の軍を連れて加勢したが、決着はつかなかった。同じ年の4月、姪エリナーの夫であるイングランド王ヘンリー3世からリッチモンド領を与えられ、年末ごろにイングランドへ招かれた。1241年1月に騎士とされてリッチモンド伯となったが、自らその称号を受け取ることはなかった。同じ年にドーヴァー城の城代となり、翌年まで務めた。ヘンリー3世の命でポワトゥー侵攻への支援を集めて回り、1242年2月にはポワトゥーへ派遣されたが、危うく捕らえられかけてかろうじて逃れた。その後、姪サンシーとヘンリー3世の弟リチャードの結婚を交渉するためプロヴァンスへ向かった。1244年5月にはグリュイエール伯ラウル3世からグリュイエール城を譲られている。1246年にストランドとテムズ川に挟まれた地を与えられ、そこにサヴォイ・パレスを築いたとされる。同じ年にサヴォイアへ戻ってアメデーオ4世と結婚契約を結び、1247年2月にその孫娘アラージア・ディ・サルッツォを伴ってイングランドに戻った。

1253年までにベルンの庇護者となった。1258年、オックスフォード条項をめぐる改革が始まると、改革を支援し合う宣誓を行った貴族の中核にシモン・ド・モンフォールらとともに名を連ね、ヘンリー3世の異母弟であるリュジニャン家の影響力を減らすため改革派を支持した。しかし1260年にモンフォールがピエトロを統治評議会から解任したため、改革派と決別した。1261年以降は姪エリナーとヘンリー3世の側に立ち、モンフォールと対立した。

1263年に甥のサヴォイア伯ボニファーチョが嗣子なく死ぬと、ピエトロはサヴォイアに戻って伯として認められた。この継承は、15歳の甥トンマーゾ3世を擁するピエモンテとの対立を生んだ。ピエトロは方形でなく円形の城を築きはじめ、伯領をバイイの管轄区と城代領に分け、財政を管理するためシャンベリに会計局を置いた。伯領全体に適用される法律を出した最初のサヴォイア伯でもあり、その法令には裁判官が裁判を遅らせないという規定があり、これはマグナ・カルタに由来するとされる。ルドルフ・フォン・ハプスブルクがシヨン城を含むヴォーの領地を占領すると、1266年に軍を率いて取り戻した。ピエトロは1268年5月15日に男子の跡継ぎなく死に、伯位は弟でリヨン大司教だったフィリッポ1世が継いだ。

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