伝記
ゲオルギー・ワシリエヴィチ・チチェーリンは、1872年11月24日に生まれ、1936年7月7日にモスクワで没したソビエト連邦の政治家であり、外交官である。1918年から1930年まで外務人民委員(外務大臣)を務め、初期のソビエト外交を代表する人物の一人となった。
ロシア帝国タンボフ県の古い貴族の家に生まれた。父ワシリーは外交官で、母も外交官の娘であった。祖父ニコライ・ワシリエヴィチも学者肌で自由主義的な外交官で、叔父のボリス・チチェーリンは歴史学者、法学者、政治学者であり、専制に反対する自由主義者であった。少年時代からロシアの抱える矛盾に目覚め、ニーチェ、ショーペンハウアー、カント、ドストエフスキーなどの著作を読みふけった。サンクトペテルブルク大学の歴史・哲学部を卒業し、1898年にロシア帝国外務省の公文書館に勤務して、『ロシア外務省史』の編纂に携わった。しかし帝国の外交官でありながら、次第に革命運動に共感するようになり、健康上の理由を名目に出国する。
ドイツのベルリンやボンで、まずドイツ社会民主党に、次いでロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ、メンシェヴィキ両派に接触した。のちにメンシェヴィキに参加してドイツやイギリス、フランスで活動し、この時点では、レーニン率いるボリシェヴィキの急進的な党組織論や戦術論には反対の立場だった。1908年にベルリンで逮捕されてドイツを追放され、ロシア外務省も免官となった。パリに移ってフランス社会党で活動を再開し、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、「祖国防衛派」から「国際主義」へと転向し、穏健主義から転換した。1917年の二月革命の時にはイギリスにいて反戦運動に取り組んだが、イギリス当局に逮捕・拘束された。十月革命でソビエト政権が樹立され、外務人民委員となったトロツキーは、英国政府にチチェーリンらの釈放を要求し、1918年1月に、イギリスの駐露大使らと交換の形で釈放されて帰国した。
帰国後にロシア共産党に入党し、直ちにブレスト=リトフスク条約の調印に派遣され、レーニンの指令に従って「条文を読まずに」早期に講和条約に調印した。5月にトロツキーの後任として外務人民委員となり、極東共和国を緩衝国家として日ソの衝突を避ける方策を採った。1922年のジェノア会議にはソ連全権として出席し、日本全権の石井菊次郎と激しい論戦を繰り広げた。石井は、この「一騎討ち」を外交官生活で最も痛快な出来事と回想している。会議では、外交手腕が列強首脳からも評価され、イギリスの首相ロイド・ジョージが激賞した。同じ会議中にドイツ外相ラーテナウと秘密交渉を行って、ラパロ条約を電撃的に締結し、世界中を驚かせた。こうしてドイツやアジア諸国との緊密な関係を築き、ヴェルサイユ体制に批判的な外交を進めた。1925年にはソ連共産党中央委員に選ばれた。
1927年にはスターリンに外交政策を批判する書簡を送り、自らを外相から解任するよう申し出た。元来トロツキーと親しい関係にあり、トロツキーの失脚と亡命とともに立場が弱まっていったと観測される。1928年にドイツへ転地療養を名目に出国し、1930年7月に健康上の理由で外相を解任されて、後任には外務次官のリトヴィノフが就いた。以後は特別年金生活者となった。生涯独身で、低くさびのある声の持ち主だったと言われ、昼間に寝て夜遅くまで執務していたという証言もある。モーツァルトのファンで、その著作も残している。
同じ年に亡くなった人物
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