伝記
エレフテリオス・ヴェニゼロスは、1864年8月23日、当時オスマン帝国領だったクレタ島のハニアで、雑貨商の父キリアコスと母スティリアニの五番目の子として生まれたギリシャの政治家である。1866年から1872年までギリシャ領のシロス島で暮らし、この時期にギリシャ国籍を取ったと言われる。アテネとシロス島のギムナジウムで学んだ後、父の意向でクレタ島に戻って商売の修行をしたが、父の友人でギリシャの在クレタ総領事ゲオルギオス・ジコマラスがその聡明さに気づいて父を説得し、アテネ大学法学部で学ぶことになった。1883年に父が没すると、アテネとクレタを往復して商売を続けながら家族の面倒を見たが、1885年に経済が安定するとアテネに戻り、学業に専念した。
1886年、イギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンがアテネに立ち寄った際、クレタ島の人々はギリシャへの統合を望んでいないと語ったという話が新聞に出た。クレタ出身の学生5人が抗議のため面会を求め、その代表がヴェニゼロスであった。統合を望む島民の思いを雄弁に語り、チェンバレンは感心したと言われる。1887年に大学を卒業し、クレタ島で弁護士を開業して新聞「レフカ・オリ」の編集・発行も行った。1889年にクレタ議会の議員に選ばれ、1896年のクレタ蜂起には指導者の一員として加わった。蜂起をすぐ統合に結びつけるのではなく、外交に利用できると見抜いていたという。列強が蜂起参加者の掲げるギリシャ国旗に砲撃を加えたことは欧米に衝撃を与え、クレタ島の正教徒は交渉相手として認められ、ヴェニゼロスも交渉団に加わった。1897年にはオスマン帝国への反乱に参加し、自治が認められるとゲオルギオス王子が総督となり、その下で参事官として働いた。やがて王子の統治が小心に見えたため「エノシス(統合)」を呼びかけ、王子は辞任した。1908年にオーストリア・ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、クレタ議会は統合を宣言した。
1909年にギリシャ本土で軍将校によるクーデターが起きると、その政治手腕を買われてアテネに招かれた。総選挙の実施を主張して受け入れられ、1910年8月と11月の二度の選挙を経て、11月には支持派が362議席中300議席を占め、首相に任命された。皇太子コンスタンティノスを陸軍に戻し、1911年に憲法を修正し、教育の義務化と無料化や土地改革の法整備を進めた。財政は黒字に転じ、陸海軍大臣を兼ねて再軍備を進めた。1912年からのバルカン戦争ではテッサロニキなどを占領し、領土は戦争前より7割増え、人口は280万人から480万人になった。第一次世界大戦では連合国側での参戦を唱えて国王コンスタンディノス1世と対立し、中立を主張する国王との間でギリシャは分裂した。1915年に首相を罷免された後、テッサロニキに臨時政府を設けたが、国王が国外へ退去すると再び首相となり、パリ講和会議には代表団長として参加した。通算9期、12年にわたり首相を務め、1936年3月18日に死去した。ハロルド・ニコルソンは「ヴェニゼロスとレーニンだけがヨーロッパにおける偉大な政治家である」と評した。
同じ年に亡くなった人物
- オスカー・バルナック (1936年没)
- 斎藤実 (1936年没)
- アンドリア・モホロビチッチ (1936年没)
- エドモン=フランソワ・アマン=ジャン (1936年没)
- フェルディナント・テンニース (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=アンリ・ダングルベール (1691年没)
- ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス (1763年没)
- ユゼフ・マリア・ハーネー=ウロンスキー (1853年没)
- 時佩璞 (2009年没)
- レイモンド・ローウィ (1986年没)