伝記
シモン・ド・モンフォールは、13世紀のイングランドで国王に反抗した貴族で、第6代レスター伯である。1208年ごろに生まれた。父は、アルビジョア十字軍を率いた同名の第5代レスター伯シモン、母はアリックス・ド・モンモランシーで、シモンは末の息子だった。父方の祖母アミシア・ド・ボーモンはレスター伯領の共同相続人の一人だった。ノルマンディーを失ったあと、国王ジョンは父シモンがレスター伯領を継ぐことを認めず、領地と爵位をシモンの従兄にあたるチェスター伯ラヌルフに与えた。1218年のトゥールーズ攻囲では母とともにいて、父は投石機から放たれた石に頭を打たれて死んだ。兄のギーも1220年にカステルノーダリの攻囲で戦死した。
1229年、シモンは兄アモーリーと、シモンがフランスでの権利を捨て、アモーリーがイングランドでの権利を捨てるという取り決めを結んでイングランドへ渡った。英語は知らなかった。フランス語を話す外国人に好意的だったヘンリー3世に迎えられ、年上で子のないチェスター伯に直接頼んで、伯領を譲る約束を取りつけた。翌年に相続を認められたが、実際に領地を手にするまでには数年かかった。1236年には、まだ爵位を受けていないのに「レスター伯」として文書を出している。同じ年にはフランドル女伯ジャンヌとの結婚を望んだが、フランス王太后ブランシュ・ド・カスティーユの説得で、ジャンヌはサヴォイア家のトマ2世と結婚した。
1238年1月7日、シモンはヘンリー3世の妹エリナーと結婚した。エリナーはウィリアム・マーシャルの未亡人で、夫の死後、16歳で生涯の貞操を誓っていた。結婚は王の承認を得ていたが、有力な貴族に相談せず秘密裏に行われた。カンタベリー大司教エドマンド・リッチは貞操の誓いを理由に結婚を非難し、貴族たちは、王の妹が身分の低い外国人に嫁ぐことに抗議した。王の弟のコーンウォール伯リチャードは怒って反乱を起こし、ヘンリー3世が6,000マルクを与えてなだめた。シモンは3月にローマへ出向いて教皇の承認を求めた。同年11月には長男ヘンリーが生まれた。1239年2月、シモンはようやくレスター伯に正式に叙された。王の相談役となり、王の長男エドワードの9人の名づけ親の一人にもなった。
1248年にガスコーニュの統治に失敗してヘンリー3世の信頼を失い、王と対立するようになった。1258年4月、シチリア遠征の費用をまかなうため、王は徴税について諸侯の同意を求めざるをえなくなった。諸侯大会議でシモンら7人の有力貴族は、徴税への協力と引き換えにさまざまな改革を求めた。翌1259年もシモンは改革を進めたが、王やグロスター伯リチャード・ド・クレアら保守派の反撃を受け、1261年には力を失ってフランスへ退いた。帰国すると国内は動揺した。1263年と1264年の反乱を経て、シモンはイングランドの事実上の支配者となった。
1264年5月のルイスの戦いで国王派に圧勝してヘンリー3世らを捕らえ、いわゆるシモン・ド・モンフォールの議会を召集した。諸侯や騎士に都市の代表も集め、国内の広い層の支持を得ようとしたもので、中世ヨーロッパで初めての議会の直接選挙だったとされる。しかしシモンの勢力は孤立し、王太子エドワードがこれに乗じて反撃した。1265年8月4日、イーヴシャムの戦いで、シモンは長男ヘンリーとともに戦死した。レスター伯の称号と、前年に創設されたチェスター伯の称号も剥奪された。シモンは、議会制度の基礎を築いた人物として知られ、イングランドでは英雄視されている。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・プシェミシリトカ (1265年没)
- フレグ (1265年没)
- ウルリヒ1世 (1265年)
- シェルのジャン (1265年)
- ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーン4世 (1265年)
同じ地域に関係する人物
- ジェニー・リンド (1887年没)
- エドワード・エルガー (1934年没)
- エドワード・P・トムスン (1993年没)
- ドロシー・ラウンド (1982年没)
- チャールズ・ベル (医学者) (1842年没)