伝記
トレニオタは、13世紀のリトアニアの公で、リトアニア王ミンダウガスの甥である。1210年ごろに生まれたとされる。母はミンダウガスの姉妹だという説があり、名の伝わらないその姉妹の子とする研究者もいれば、リトアニア・ジェマイティヤ年代記に従ってスキルマンタスの子とし、リウバルタスとピシマンタスという兄弟がいたとする見方もある。父のヴィキンタスまたはエルドヴィラスからジェマイティヤ公の地位を受け継いだとする説もある。ナヴァフルダク、ポドラシエ、そして原リトアニアの公ともされる。
ミンダウガスは、リヴォニア騎士団とドイツ騎士団の攻撃を和らげるためにカトリックを受け入れ、1253年に教皇の認可を得て王に即位した。これに対してトレニオタは、ミンダウガスのもとでジェマイティヤの統治を任されたとみられるが、異教の信仰を保ち続けた。ミンダウガスの改宗後も騎士団はリトアニアの領内に侵入を繰り返した。トレニオタの名がはじめて記録に出てくるのは、1260年のドゥルベの戦いで、ジェマイティヤ軍を率いて騎士団に勝利したときである。翌1261年にはリエルヴァルデで騎士団に勝ち、さらに援軍を求めて、自分の治める地方に対するミンダウガスの権威を受け入れる意向を示した。ジェマイティヤはその後もかなりの自立を保った。
トレニオタは王の側近として、ドゥルベの戦いのあと、キリスト教を捨てて騎士団と戦うようミンダウガスを説得した。この路線の転換は決定的な成果をあげず、騎士団はほとんど弱らなかった。1262年にはミンダウガスがマゾフシェに大規模な遠征を行い、トレニオタもこれに協力した。同年、二人はひそかにリヴォニアへの遠征を準備した。しかしミンダウガスは、この甥との結びつきを疑うようになった。
ミンダウガスは、妻モルタの死後、その姉妹で、すでにナリシアの公ダウマンタスの妻であった女性を自分の妻にした。これを恨んだダウマンタスはトレニオタと手を組み、1263年にミンダウガスと二人の息子を暗殺した。トレニオタは新しい大公となり、国を異教に戻した。トレニオタの支配は長く続かなかった。ポロツク公タウトヴィラスと権力をめぐって争い、これを討ち取って勝ったが、やがてミンダウガスの支持者たちに暗殺された。ミンダウガスの息子ヴァイシュヴィルカスの手にかかったともいわれる。1264年のことで、大公の位は、このヴァイシュヴィルカスが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ダヌィーロ・ロマーノヴィチ (1264年没)
- ウルバヌス4世 (ローマ教皇) (1264年没)
- 理宗 (1264年没)
- ステファン・ヴラディスラヴ (セルビア王) (1264年没)
- キプロス王女イザベラ (1264年)
同じ地域に関係する人物
- タダス・イヴァナウスカス (1971年没)
- Jurgis Matulaitis-Matulevicius (1927年没)
- Justinas Lagunavicius (1997年没)
- ヨナス・ヤブロンスキス (1930年没)
- Stasys Stonkus (2012年没)