伝記
アレクサンドル・ヤロスラヴィチ・ネフスキーは、ノヴゴロド公を経てウラジーミル大公(在位1252年から1263年)となった中世ロシアの英雄である。生まれは1220年5月30日とも1221年5月13日ともされ、没したのは1263年11月14日である。父はウラジーミル大公ヤロスラフ2世で、母はフェオドシヤ。幼い頃から智勇兼備の資質を父に高く評価され、1236年にノヴゴロド公の位を継ぐよう命じられた。ただし、その決定にはノヴゴロドの民会の承認も必要だったとされる。モンゴルの西征がルーシを襲った時期にも、モンゴル軍はノヴゴロドには侵攻せず、この都市はドイツ騎士団とスウェーデンから領土を狙われていた。
1240年、ビルゲル率いるスウェーデン軍がノヴゴロド領に侵入すると、アレクサンドルはイジョラ川とネヴァ川の合流点付近で、少ない兵力で奇襲をかけて大勝したとされる。これがネヴァ河畔の戦いで、後にネフスキー、すなわち「ネヴァの」という呼び名を得た。もっとも、この戦いはスウェーデン側の史料には出てこず、後世に誇張されたのではないかという見方もある。ところが同じ頃、ノヴゴロドの人々と仲違いした彼は、母や妻や部下を引き連れて、父のいるペレヤスラヴリへ去った。ドイツと協調する都市貴族が、強硬な姿勢の彼を疎んじたためといわれる。その後まもなくドイツ騎士団が武力侵攻を始めたため、人々は彼を再び公に招いた。1241年に復帰した彼は、ドイツと結んだ「裏切り者」を粛清して、国内の姿勢を対ドイツにまとめた。1242年4月にはチュド湖上の戦いでドイツ騎士団に勝ち、勇名をいっそう高めた。
東方のモンゴルに対しては、臣従の道をとった。1246年に父がモンゴル帝国の首都カラコルムへ赴いた際に没すると、彼は自らジョチ・ウルスの首都サライを訪れ、バトゥに臣従を約束した。1252年にはジョチ・ウルスの軍を利用して、反抗的だった弟を追放し、ウラジーミル大公位を継ぐことを許された。大公となってからは、権力を高めるために国内の反モンゴル運動を弾圧する一方、宗教を保護して、ある程度の自由を許した。キエフ府主教も、カトリックへの改宗を強いる西のドイツ騎士団より、信仰面で比較的寛容な東のモンゴルと結ぶ外交を支持した。一部の史料は、民衆の反モンゴル運動に厳しい弾圧を加えたとも記す。1260年にはリトアニア大公ミンダウガスと同盟したとされる。
1263年、4回目のサライ訪問の途上、ゴロジェツで病に倒れて没した。正教会の熱心な信者で、死を前に修道誓願を望んだが、実現しなかったという。後は弟のヤロスラフ3世が継ぎ、末子ダニールはモスクワ公となって、その系統からイヴァン3世が出た。死後早くから聖人視され、1547年にロシア正教会から列聖された。ピョートル1世は、ネヴァ河畔の戦いの古戦場に、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院を建てた。1938年にはエイゼンシュテインが、チュド湖上の戦いを映画『アレクサンドル・ネフスキー』に描いた。独ソ不可侵条約への配慮から上映は1941年まで小規模にとどめられたが、独ソ戦が始まると対独宣伝として大いに上映された。プロコフィエフはその音楽をカンタータに改作している。
同じ年に亡くなった人物
- アックルシウス (1263年没)
- ホーコン4世 (ノルウェー王) (1263年没)
- ミンダウガス (1263年没)
- 親鸞 (1263年没)
- ボニファーチョ・ディ・サヴォイア (1263年没)
同じ地域に関係する人物
- Rostislav Alexeyev (1980年没)
- Viktor Bushuev (2003年没)
- Lyudmila Shishova (2004年没)
- ラーコシ・マーチャーシュ (1971年没)
- イリナ・スラヴィナ (2020年没)