HISTORICAL PERSON · 1971年没

ラーコシ・マーチャーシュ

ハンガリーの政治家でユダヤ系。共産党書記長、勤労者党第一書記、人民共和国首相を務めた。

生涯
1971年没
死亡地
ロシア連邦(ニジニ・ノヴゴロド州 / ニジニ・ノヴゴロド)
出生地
セルビア共和国(アダ (セルビア))
出典
世界地図
ロシア連邦(ニジニ・ノヴゴロド州)

伝記

ラーコシ・マーチャーシュは、1892年3月に生まれ(9日とも14日ともされる)、1971年2月5日にソ連のゴーリキーで没した、ユダヤ系ハンガリー人の政治家である。ハンガリー共産党の書記長、ハンガリー勤労者党の第一書記、ハンガリー人民共和国の首相を務め、1948年から1956年にかけて、事実上のハンガリーの指導者であった。生まれたときの名はローゼンフェルト・マーチャーシュといった。

オーストリア=ハンガリー帝国のアダ(現在のセルビア)で、信仰心の薄いユダヤ人の食料雑貨商の子として生まれた。父ヨージェフは、1848年のハンガリー革命に加わった祖父の子で、村人から「コシュートのユダヤ人」と呼ばれた。独立派の党を熱心に支持し、1903年に姓をローゼンフェルトからラーコシに改めた。のちに宗教を捨て、多くのマルクス主義者と同様に、無神論者を名乗った。若いころから左翼の政治に関わった。第一次世界大戦中はオーストリア=ハンガリー軍に従軍して、東部戦線で捕虜になった。帰国後、1919年にハンガリー評議会共和国のクン・ベーラ政権に加わり、有力な人民委員の一人となったが、政権はすぐに崩壊し、国外に逃れてソビエト連邦へ亡命した。コミンテルンの工作員として国外で活動し、1924年にハンガリーへの帰国を試みて逮捕された。獄中での15年以上は、国際共産主義運動で有名な事件となった。1940年、1849年にロシア軍がヴィラゴスで奪ったハンガリー革命の軍旗と引き換えに釈放され、再びソ連へ出国した。

1945年に赤軍とともにハンガリーに戻り、2月に再建された共産党の書記長に選出された。戦後の自由選挙で共産党は大敗したが、モスクワの主張で、内務省など政府の重要な地位を得て、ラーコシ自身も副首相となった。ここから、対抗勢力を、ラーコシが後に「サラミ戦術」と呼ぶやり方で、薄切りにするように次々と排除していった。1948年には社会民主党を合流させてハンガリー勤労者党を創設し、民主的な政治の体裁をすべて捨て去って、ハンガリーは完全に共産党の一党独裁となった。自らを「スターリンの最も優秀なハンガリーの弟子」と呼ぶスターリン主義者で、小スターリンとして自分への個人崇拝を育てた。かつてのスターリンのような粛清の波のなかで、外相ライク・ラースローらの政敵を逮捕し、投獄し、処刑した。秘密警察の国家保衛庁で国民の不満を押さえつけた。

1952年8月に首相を兼ねたが、1953年6月にソ連共産党の怒りを和らげるため、首相の職をナジ・イムレに譲らざるをえなくなった。第一書記は残された。1956年6月、フルシチョフの秘密報告の直後に、ソ連の圧力で第一書記も辞職させられ、ゲレー・エルネーと交代した。同年7月、「病気の治療のため」という名目でソ連への出国を命じられた。ハンガリー動乱の始まる三か月前のことである。余生をソ連のキルギスで過ごし、死の前年、一切の政治活動をしないことを条件に帰国を許されたが、これを拒み、ゴーリキーで亡くなった。遺体はハンガリーに返還され、ブダペストに埋葬された。ハンガリーでは、一般に、圧政と抑圧の象徴として見られている。

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