伝記
アスカロンのアンティオコスは、紀元前125年ごろから紀元前68年にかけて生きたヘレニズム期末期の哲学者である。アカデメイア派の、のちに中期プラトン派と呼ばれる流れの創始者とされ、キケロの師の一人でもある。シリア地方のアスカロンの出身で、ストラボンもこの町の特徴として、アンティオコスの出身地であることに触れている。生年については紀元前135年から130年の間とする見方もあり、確かなことは分かっていない。若いころのことは知られておらず、生涯の主な記録は、ピロデモスが『アカデメイア派の歴史』に書いた伝記にあるが、パピルスの保存状態が悪く、重要な部分が失われたり読めなくなったりしている。
アンティオコスはアテナイに出て、紀元前110年より後にアカデメイアに入り、学頭ラリッサのピロンに師事した。弟子としての関係は、ピロンの他のどの弟子よりも長く続いたという。同じころ、ストア派のムネサルコスのもとでも学んだ。この接触は、同じアスカロン出身のストア派のソソスが仲立ちしたらしく、のちにアンティオコスは自分の著作の一つにソソスの名を冠している。最初からストア派だったのか、アカデメイア派でありながらストア派の講義にも出ていたのかは、はっきりしない。
当時のアカデメイアは懐疑主義を奉じていた。アンティオコスにはその中心的な主張が成り立たないと思われ、やがてピロンと不和になった。そして学園を去って、アテナイに自分の学派を開き、これを「古アカデメイア」と称した。懐疑主義が持ち込まれる前のプラトン主義につながろうとしたのである。後のローマ帝政期には、ピロンが「第四のアカデメイア」の創設者、アンティオコスが「第五のアカデメイア」の創設者と呼ばれた。彼はピロンやカルネアデスに反対して、知性には真偽を見分ける力が備わっていると主張し、ストア派のカタレプシスの説に沿ってこれを論じた。師を論駁した著作はキケロが「ソソス」と呼んでおり、論理学に関する『カノニカ』という著作はセクストス・エンペイリコスに引用されている。倫理学では、幸福は徳の高い生活を本質とするが外的な事柄から独立ではないと述べ、あらゆる罪は等しいとするストア派の説は退けた。一方で感情は抑えるべきだという点ではストア派に同意した。こうしてストア派と逍遥学派の教えをプラトン主義に取り入れようとしたため、キケロは彼をストア派に位置づけようとしたが、アンティオコス自身は折衷主義の哲学者だと考えていたようだ。
紀元前88年、第一次ミトリダテス戦争にともなうアテナイの混乱で、ピロンと多くの弟子たちはローマへ逃れた。すでにアカデメイアの一員でなかったアンティオコスはこれに従わず、アレクサンドリアに移ったらしい。そこで、スッラのもとにいたローマの将校ルクッルスと出会い、友人となり、庇護も受けた。ルクッルスにはアフリカ北岸への旅やアルメニアへの遠征にも同行したとされる。
キケロが紀元前79年にアテナイへ留学したときには、アンティオコスはすでにアテナイに戻っており、キケロの友人となった。ウァッロやキケロといったローマの政治家が学園の弟子に含まれたという。キケロは彼を、アカデメイア派の中でも最も見識の高い、当代で最も洗練された鋭い哲学者だと、親愛をこめて繰り返し述べている。アンティオコスは紀元前68年に没したとされ、没した地はアレクサンドリアともいわれる。ピロンの学派が衰えたのち、彼の学派はアテナイにおけるプラトンの伝統の唯一の継承者となり、中期プラトン主義と呼ばれる時代が始まった。
同じ年に亡くなった人物
- ユリア (紀元前68)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前68年の執政官) (紀元前68年没)
- 霍光 (紀元前68年没)
同じ地域に関係する人物
- プトレマイオス6世 (紀元前145年没)
- 後藤健二 (ジャーナリスト) (2015年没)
- Remi Ochlik (2012年没)
- アブドルラフマン・ムスタファ・カドゥリ (2016年没)
- ヨタピアヌス (249年没)