HISTORICAL PERSON · 1887年没

グスタフ・キルヒホフ

プロイセン生まれの物理学者で、電気回路と放射のキルヒホフの法則を導いた。ブンゼンと分光学を研究してセシウムとルビジウムを発見し、太陽の構成元素を分光学的に同定できると示した。

生涯
1887年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ帝国(ケーニヒスベルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

グスタフ・ロベルト・キルヒホフは、1824年3月12日、プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)に生まれた物理学者である。「キルヒホフ」はドイツ語読みで、英語読みではカーチョフとなる。父フリードリヒは同地の弁護士で、プロイセン国家に対する強い義務感を持っていた。母はヨハンナ・ヘンリエッテ・ヴィトケという。一家はケーニヒスベルクの栄える知識人社会の一員で、グスタフは一家で最も才能のある息子として、プロイセンに仕えることが自分に開かれた唯一の道だと信じて育てられた。当時の大学教授は公務員でもあったため、両親は大学教授になることこそ、高い学才を持つ者がプロイセンに仕える適切な地位だと考えた。

学校での優秀さのまま、彼の進路は自然に決まり、1544年に初代プロイセン公アルブレヒトが創設したケーニヒスベルクのアルベルトゥス大学に入学した。ここではフランツ・エルンスト・ノイマンとカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビが共同で数理物理学のゼミナールを開いており、キルヒホフは1843年から1846年までこれに出席した。1843年はヤコビが体調を崩した年で、彼に大きな影響を与えたのはノイマンだった。ノイマンの関心は、そのころ電気の誘導に向かっており、1845年には誘導に関する二つの専門的研究の最初のものを発表した。キルヒホフはその時期にノイマンのもとで学び、電流に関する研究で最初の際立った貢献をした。数学はフリードリヒ・ジュール・リヒェロに教わっている。

1847年に大学を卒業してベルリンに移った。ドイツ連邦の貧しい状況のもとで社会が緊迫していた時期だったが、特権的な立場にあった彼は事態にあまり巻き込まれず、研究を続けた。学生時代にはオームの法則を拡張した電気の法則を提唱し、1849年に電気回路における「キルヒホフの法則」としてまとめ上げた。この法則は電気工学で広く応用されている。1848年から1850年まで、ベルリンで無給の私講師を務めて、それまで信じられていた電流と静電気についての理解を正した。1850年にブレスラウ大学の員外教授となり、そこで弾性板の変形に関する問題をいくつも解いている。ブレスラウでは化学者ロベルト・ブンゼンと知り合い、親しい友人となった。1854年、ハイデルベルクにいたブンゼンの勧めもあり、ハイデルベルク大学の物理学教授となって、その後はブンゼンと実り多い共同研究を行った。1857年には、数学の師リヒェロの娘クララと結婚した。

1859年に黒体放射におけるキルヒホフの放射法則を発見し、1862年には「黒体放射」という名称を提案した。ブンゼンとともに分光学に取り組み、1860年にセシウムを、翌年にはルビジウムを発見した。フラウンホーファーが太陽光スペクトルに見つけた暗線のD線が、ナトリウムのスペクトルと同じ位置にあることを明らかにし、分光学的方法で太陽の構成元素を同定できることを示した。1862年にはイギリス王立協会のランフォード・メダルを受けた。音響学や弾性論の研究も行い、1875年にベルリン大学の教授となり、王立協会のフェローにも選ばれた。1887年10月17日、ベルリンで亡くなった。

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