HISTORICAL PERSON · 1935年没

クルト・トゥホルスキー

ドイツのユダヤ人諷刺作家・ジャーナリスト。偽名でドイツ社会を風刺し、『世界舞台』の記者としてナチスを批判した。著書は焚書となった。

生涯
1935年没
死亡地
スウェーデン王国(ハッランド県 / ヨーテボリ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
スウェーデン王国(ハッランド県)

伝記

クルト・トゥホルスキーは、1890年1月9日にベルリンで生まれたドイツのユダヤ人の諷刺作家・ジャーナリストである。父アレックスは銀行の支配人で商人でもあり、いとこのドーリスと1887年に結婚して、クルト、フリッツ、エレンの三人の子をもうけた。クルトは長男で、幼少期は父の仕事の都合で移ったシュテッティン(現在はポーランドのシュチェチン)で過ごし、1899年に一家はベルリンに戻った。同じ年にフランス語ギムナジウムに入り、1903年からはヴィルヘルム王立ギムナジウムで学んだ。1905年11月1日に父が梅毒で亡くなったが、家族にかなりの財産を残したため、トゥホルスキーは経済的な心配なく学業を続けられた。母との関係は常に難しかったが、父のことは終生慕い、敬っていたという。1907年にギムナジウムを離れ、個人教師のもとで大学入学資格の試験に備えた。同じ年の11月22日には、ベルリンの日刊紙の諷刺付録『ウルク』に、匿名で最初の二つの記事を発表した。

1909年10月にベルリンで法学の勉強を始め、2学期目はジュネーヴ大学で過ごした。学業のかたわら、社会民主党系の新聞『フォアヴェルツ』や『プラハ日報』などでジャーナリストとして働いた。1911年9月には、愛読していたマックス・ブロートを驚かせようと、友人のクルト・シャフランスキとプラハを訪ね、ブロートの友人フランツ・カフカが日記にこの訪問を書き留めている。1912年に、ラインスベルクの土地と風景を描いた『ラインスベルク 恋人たちの絵本』を出版し、ドイツで当時ふつうだった農村の風景を重々しく描く調子を離れて、読者に好評を得た。1915年1月にはイェーナ大学で法学の博士号を得たが、弁護士として働くことはなかった。

第一次世界大戦で記者の仕事は中断し、1915年4月10日に徴兵されてロシア戦線に送られた。弾薬の補給兵を務め、のちに部隊の特派員となり、1916年11月26日から前線新聞『飛行士』を発行した。クールラントのアルト・アウツの砲兵学校の事務所では、のちの1924年に二人目の妻となるバルト・ドイツ系のメアリー・ゲロルトと知り合った。ただ、前線新聞の編集者という立場は、塹壕で戦わずに済む好機だと考えていた。戦後は、カスパー・ハウザー、ペーター・パンター、ティボルト・タイガー、イグナーツ・ヴローベルといった偽名を使い分け、ドイツ社会への風刺に満ちた作品を発表した。1924年にパリに移り、『世界舞台』の契約記者となった。カール・フォン・オシエツキーとともにこの週刊誌の編集に関わり、左翼民主主義者、平和主義者、反軍国主義者として、ヴァイマル共和国を擁護し、ナチスを批判した。

1930年にスウェーデンに移った。ナチスが政権を取ると、作品は頽廃的とされて焚書の対象となり、ドイツの市民権も剥奪された。1935年12月21日、ヨーテボリで睡眠薬の過剰摂取により亡くなった。自殺説もあるが、異議を唱える伝記作家もいる。遺灰はマリエフレードのグリプスホルム城近くのコナラの木の下に埋められ、戦後に立てられた墓石には、ファウスト第二部の一節が刻まれている。没後50年の1985年には西ベルリンで、生誕100年の1990年には東ドイツで、記念切手が発売された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物