伝記
アストリッド・ド・スエードは、1905年11月17日に生まれ、1935年8月29日に没したベルギー国王レオポルド3世の王妃である。スウェーデン語名はアストリッド・アヴ・スヴェーリエといい、スウェーデンのベルナドッテ家の出身である。
ストックホルム中心部の両親の邸宅で生まれた。スウェーデン国王オスカル2世の三男ヴェステルイェートランド公カールと、デンマーク国王フレゼリク8世の次女である妃インゲボーの間の第三子、三女である。すぐ上の姉はノルウェー国王オーラヴ5世の妃となったマッタで、ほかに姉マルガレータと弟カールがいた。母方の叔父には、デンマーク王クリスチャン10世とノルウェー王ホーコン7世がいる。1923年に家が経済的な理由で邸宅を離れるまで、きょうだいとともにストックホルムのユールゴーデン島の館で育った。1909年以降の休暇は、ノルシェーピング近郊の夏の別荘で過ごした。教育は厳しく、贅沢はほとんどなかった。フランス語で授業をするボートヴィード寄宿学校に通い、その後の花嫁学校では裁縫、ピアノ、バレエ、育児を学んだ。学校を終えると、ストックホルムの孤児院で子どもたちの世話をした。
王族としての身分から、のちの英国王エドワード8世やノルウェー王オーラヴ5世などの花嫁候補に名が挙がったことがある。1926年9月、ベルギーのブラバント公レオポルドとの婚約が発表された。国王夫妻は、政治的な思惑のない、愛による結婚であると語った。11月4日にストックホルムで民事婚を挙げ、11月10日にブリュッセルで宗教上の式を行った。王族同士ではあるが熱烈な恋愛結婚であった。ベルギー政府から贈られたティアラが結婚祝いとなり、のちの王妃たちにも受け継がれた。
新婚旅行は南フランスで過ごし、その後はブリュッセルの王宮の一角に住んだ。アストリッドはフランス語とオランダ語を学び始めた。美しさと魅力、飾らない人柄によって、ベルギー国民に熱く迎えられた。ブラバント公妃として、さまざまな困窮の緩和に努めた。1927年10月には娘ジョゼフィーヌ=シャルロットが生まれ、のちにルクセンブルク大公ジャンの妃となった。その後に2人の息子、ボードゥアンとアルベールが生まれ、2人はいずれもベルギー国王となった。スウェーデン王家は他のヨーロッパ王家と比べ堅苦しさが格段に少なかったため、国王の住むラーケン宮殿から遠くない館に住んだ頃、アストリッドは子供たちのためになるべく普通の生活を送るよう心がけた。上流階級には儀礼を心得ていないと批判する者もいたが、多くの国民は、子供たちを連れてルイーズ大通りを散歩する姿を敬愛した。結婚後にはカトリックに改宗した。当初はベルギー王家がカトリックだからという動機だったが、彼女の気質と非常に合い、敬虔な信者となった。
1934年にアルベール1世が崩御し、夫の即位でベルギー王妃となってからは、大恐慌の中で苦しむ国民のために、さまざまな活動を積極的に行った。1935年8月29日、レオポルド3世の運転する車がスイスのルツェルン湖畔の渓谷に突っ込み、同乗していたアストリッドは事故死した。遺体はラーケンの教会に埋葬された。悲嘆に暮れた夫は、事故現場に彼女の名を冠した教会を建てさせた。1983年にレオポルド3世が崩御した際には、ラーケンの教会に妻と共に埋葬された。アフリカの旧ベルギー植民地にあったアストリダ(現在のブタレ)は、彼女にちなんで名付けられた。
同じ年に亡くなった人物
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- アンリ・ペリシエ (1935年没)
- ハーバート・ジャイルズ (1935年没)
- クルト・トゥホルスキー (1935年没)
- ジョン・ハートリー (1935年没)
同じ地域に関係する人物
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- ウルリヒ・フォン・フッテン (1523年没)
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