伝記
マティルド・ド・ダンマルタンは、1202年ごろに生まれ、ブローニュ女伯としてポルトガル王妃にもなった女性である。マオーとも呼ばれ、ブローニュ女伯としてはマティルド2世と数えられる。父はブローニュ伯ルノー・ド・ダンマルタン、母はイドで、イドもブローニュ女伯であり、夫とともに共同で統治していた。父がブーヴィーヌの戦いで敗れて捕らえられると、フランス王フィリップ2世はブローニュ地方の支配権を握った。マティルドは1216年に伯位を継いだが、同じ年に王は、彼女を自分の息子でクレルモン伯のフィリップ・ユルプルと結婚させたという。この結婚を1223年とする記述もある。持参金にはカレー周辺の父の所領がすべて含まれていた。二人の間には、1219年生まれの娘ジャンヌと、1222年生まれの息子アルベリクが生まれた。
1223年にフィリップ2世が死ぬと、ブローニュの統治にはフィリップ・ユルプルが当たれるようになった。平和が続いて地域は豊かになり、フィリップは町と伯領の砦の修築や改良を進めた。1226年にルイ8世が早世すると、フィリップ・ユルプルは兄嫁で摂政を務めるブランシュ・ド・カスティーユに反乱を起こした。1234年にフィリップが亡くなったあと、マティルドはしばらく一人で統治したが、男性の統治者が必要になった。摂政のブランシュが甥にあたるポルトガル王子アフォンソを夫として選び、再婚は1235年とも1238年ともいわれる。1237年にはブローニュ伯領が、ルイ9世の弟ロベールに与えられたアルトワ伯領の臣下となった。
アフォンソとの間に生まれた子は、1239年生まれのロベールと1240年生まれの男子がいずれも幼くして亡くなったとされる。1245年から二人は別れて暮らしたという。1248年にアフォンソが兄サンシュ2世の跡を継いで王位に就いたとき、ブローニュ伯位に対する権利は手放した。マティルドは即位した夫に同行せず、ブローニュに残ったと伝わる。1253年にアフォンソはマティルドと離縁し、ベアトリス・デ・カスティーリャと結婚した。マティルドは高齢で、今後子が生まれる見込みも少なかったため、王位継承者を欲しがったアフォンソが離婚を必要としたと見られている。
マティルドは1258年、アフォンソ3世を重婚の罪で訴えた。これに対しローマ教皇アレクサンデル4世は、アフォンソ夫妻が滞在した全ての場所に対して秘蹟執行禁止命令を出した。しかし1259年1月14日にマティルドが亡くなっても、教皇の抗議にもかかわらず、アフォンソとベアトリスは夫婦であり続けた。彼女の治世のブローニュは平和で繁栄した時代とされ、年代記や証書には「女伯マオーの時代」という言い方が出てくる。カンブロンヌの礼拝堂の完成やブローニュの施療院の創設に力を注いだ。おそらくシトー会のゴメルフォンテーヌ修道院に葬られた。
4人の子のうち、娘ジャンヌはヌヴェール伯ゴーシェと結婚したが子はなく、息子アルベリクは、理由は不明ながらブローニュ伯位の継承権を放棄してイングランドへ渡り、子孫を残さなかったとみられる。マティルドが死んだとき、すでに3人の子は世を去り、4人目は渡英していた。後継は激しく争われ、1262年にパリ高等法院が、従妹のアデライード・ド・ブラバンに伯位を認めた。
同じ年に亡くなった人物
- 高宗 (高麗王) (1259年没)
- バイジュ (モンゴル部) (1259年没)
- モンケ (1259年没)
- エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ (1259年没)
- マシュー・パリス (1259年)
同じ地域に関係する人物
- ヴェルジリオ・フェレイラ (1996年没)
- ジョルジェ・サンパイオ (2021年没)
- ゲラ・ジュンケイロ (1923年没)
- マルティン・ベハイム (1507年没)
- マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ (1517年没)