伝記
高宗は1192年、高麗の康宗の長男として生まれ、のちに第23代の高麗王となった。祖父の明宗は、武臣の崔忠献に1197年に廃位され、一族は江華島に流された。高宗の幼いころの行いは、記録が乏しくはっきりしない。父の康宗は1210年に開京に戻って、熙宗から漢南公に封じられた。翌年、崔忠献の暗殺を図った熙宗が廃されて康宗が擁立されたが、そのとき高宗自身は黄海道の安岳郡にいたという。地方での配流の暮らしが続いていたと推測される。1212年に父が即位すると、高宗は開京に戻って太子となり、1213年8月に父が亡くなると、崔忠献に擁立されて王位に就いた。
在位の初めから、実権は崔氏にあった。1216年には契丹が侵入したが、撃退された。1218年、高麗はモンゴルと同盟を結んで親睦を深めようとしたが、従属国同然に扱われたことに激怒し、1225年にモンゴルの使節が殺されて国交は断たれた。1219年に崔忠献が没すると、子の崔瑀が権力を受け継いだ。
1231年8月、モンゴルの第1次侵攻が起こった。11月にモンゴル軍が開京に達すると、王は降伏し、12月に講和して、モンゴルは72人の達魯花赤を置いた。1232年7月、崔瑀は都を江華島に移し、モンゴルへの敵意を示した。達魯花赤が殺され、8月に第2次侵攻が起こった。以後も侵攻は続き、1235年に第3次を数えた。1236年のモンゴルの侵攻で、符仁寺にあった大蔵経の版木が焼けてしまった。江華島に避難していた高宗は大蔵経の製作を指示し、巨済島や南海から木材を運んで、15年かけて8万枚以上の版木を彫り上げた。これが今に伝わる高麗八万大蔵経で、1251年に完成した。1239年には、モンゴル軍が王族の入朝を条件に講和を受けて撤退したが、高麗が約束を守らなかったため侵攻が再開された。1247年に第4次、1253年に第5次の侵攻があり、その間の1249年に崔瑀が没して、崔沆が政権を継いだ。1254年7月の第6次侵攻では、年末までに20万6800人余りが捕虜として連行され、最大の被害が出た。1255年に第7次、1257年5月には第8次の侵攻があった。
1257年4月に崔沆が没し、崔竩が政権を継いだが、1258年3月、柳璥と金俊らが崔竩を暗殺して、62年続いた崔氏政権は倒れた。12月には和州以北がモンゴルに割譲された。1259年3月、高麗は世子(のちの元宗)を人質に出す条件でモンゴルに服属した。服属後の高麗王は、皇帝号や天子の呼称を使うことを禁じられ、太子は世子と格下げされた。高宗は同年7月、江華島の江都で没した。妃は熙宗の娘の安恵太后柳氏で、のちの元宗となる太子、安慶公の王淐、娘の寿興宮主がいる。和約により、のちの高麗王は元の王女を妃に迎えることになった。
同じ年に亡くなった人物
- クリストファ1世 (デンマーク王) (1259年没)
- Henry of Latvia (1259年)
- バイジュ (モンゴル部) (1259年没)
- マシュー・パリス (1259年)
- エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ (1259年没)