伝記
シャジャル・アッ=ドゥッルは、アイユーブ朝のスルタン、サーリフの夫人で、イスラム世界では稀な女性の君主となった人物である。名はアラビア語で「真珠の木」を意味し、カリフから与えられた妻妾としての名とされ、本名は分からない。幼いころに親族を失い、バグダードのカリフの後宮で奴隷として育ったといわれる。テュルク系とも、アルメニア系ともされる。レヴァントでサーリフに買われたという話もあり、その場合、サーリフがカラクに幽閉された1239年にも付き従った。1240年ごろまでにサーリフの寵愛を受けて息子ハリールを産み、解放奴隷となって、のちに正夫人となった。ハリールは早く世を去った。
1249年、ルイ9世の十字軍がエジプトへ攻め込んできたとき、サーリフが病んだまま陣中のマンスーラで急死した。跡継ぎのトゥーラーン・シャーはイラクにいて不在だった。シャジャル・アッ=ドゥッルは軍の動揺を防ぐため、サーリフの死を隠し、まだ生きているかのように食事を運ばせて、夫の名で政務を決裁した。さらにサーリフの名で軍を動かしてマンスーラの戦いを勝利に導き、サーリフ子飼いのマムルーク軍団バフリーヤの絶大な支持を集めた。1250年2月、トゥーラーン・シャーが到着して即位した。彼女は夫の死を公表した。4月にはファーリスクールの戦いで十字軍が敗れ、ルイ9世が捕らえられた。
戦いのあと、トゥーラーン・シャーは、父の財産を握って実権を譲らない継母と対立した。父の子飼いのマムルークを信用せず、有力者を投獄して側近を取り立てた。1250年、シャジャル・アッ=ドゥッルはマムルークたちを動かしてトゥーラーン・シャーを殺させ、アイユーブ朝は事実上滅びた。彼女はバフリーヤの推戴を受け、同年5月に「サーリフの僕、ハリールの母」の称号でスルタンに即位した。ルイ9世ら捕虜の身代金の受け取りや釈放などの戦後処理を滞りなく済ませ、金曜礼拝の説教には彼女の名が唱えられ、「スルターナ、ハリールの母」と刻んだ貨幣が鋳造された。しかしシリアのアイユーブ朝の君主たちは反発し、女性の君主を嫌うムスリムも多かった。カリフのムスタアスィムは「適任の男子がいないなら、こちらから男子の統治者を送る」と申し送った。7月、彼女は最有力のアミールだったアイバクと再婚してスルタンの位を譲り、治世は80日ほどで終わった。
その後、アイバクは1254年にバフリーヤの指導者アクターイを殺させ、バフリーヤの将たちはシリアへ逃れた。彼女は支持基盤を失い、サーリフの遺産を握り続けたことで、アイバクとの確執も深まった。1257年、アイバクがモースルのアミールの親族との縁組で同盟を結ぼうとすると、彼女は嫉妬した。アイバクは浴室で密かに刺殺され、彼女が陰謀の主とみられて、3日後にアイバク配下のマムルークに捕らえられ、殺された。アイバクの子アリーの生母の女奴隷たちに木靴で叩き殺され、遺体は城塞の櫓から投げ捨てられたという。包囲されたことを知ると、宝石や真珠を臼で潰したとも伝わる。命日は4月28日である。のちの歴史家イブン・イヤースは彼女の悪行を非難しつつ、「でも、彼女はエジプトを救った」と結んでいる。
同じ年に亡くなった人物
- イッズッディーン・アイバク (1257年没)
- サルタク (1257年没)
- プシェミスウ1世 (1257年没)
- ウラクチ (1257年没)
- 聖ヒヤキントゥス (1257年)
同じ地域に関係する人物
- イッズッディーン・アイバク (1257年没)
- ガマール・アブドゥル=ナーセル (1970年没)
- ファーティン・ハママ (2015年没)
- Rosemarie Said Zahlan (2006年没)
- Doria Shafik (1975年没)