伝記
アッピウス・クラウディウス・プルケルは、紀元前1世紀初期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前79年に執政官を務め、紀元前76年に没した。スッラの内戦の時代を亡命と復権を経て生き抜き、マケドニア総督の任地で病死した人物である。プルケルはパトリキ(貴族)の名門クラウディウス氏族の出身である。同氏族はサビニ族を祖とし、アッティウス・クラウススが約500人のクリエンテスとともにローマへ移り、土地と元老院の議席を与えられたことに始まるという。父は紀元前143年の執政官アッピウスと思われ、母はプレブス(平民)のアンティスティウス氏族の出身である。兄は紀元前92年の執政官ガイウス・クラウディウス・プルケルで、姉または妹はティベリウス・センプロニウス・グラックスに嫁いでいる。
政治経歴は紀元前99年の財務官に始まる。その後アエディリス(按察官)に立候補したが、兄の支援があっても最初の選挙では敗れ、再度の立候補で当選した(紀元前91年ごろ)。同盟市戦争中の紀元前89年には法務官を務めた。紀元前87年にはアッピウス・クラウディウスという指揮官がカンパニアのノラを包囲しており、現代の歴史学者はこれをプルケルとみている。スッラの命でノラを包囲したと考える研究者もいる。ところが反乱を起こしてローマを追われた執政官キンナが、ノラを包囲するプルケルの軍を賄賂で味方につけた。キンナはアフリカへ亡命していたマリウスらを呼び戻し、紀元前86年、スッラがミトリダテス戦争のためバルカン半島へ出征した隙にローマを占領した。護民官がプルケルを対象とする法を提案したが、プルケルはキンナに買収された不法があったため出頭せず、軍事指揮権を剥奪された。
こうしてプルケルは追放されて亡命者となり、紀元前86年の戸口調査では、甥でケンソルのルキウス・マルキウス・ピリップスによって元老院議員名簿から除外された。おそらくその後、東へ向かってスッラと合流したのであろう。ミトリダテス6世と講和したスッラはローマへ進軍し、マリウス派との内戦に勝って、紀元前82年11月に終身独裁官に就任した。スッラはプルケルを再び元老院議員とし、紀元前79年には執政官に就けた。同僚執政官は、プルケルの妻の甥にあたるプブリウス・セルウィリウス・ウァティアであった。
任期満了後、プルケルは前執政官権限でマケドニア属州の総督となった。しかし赴任の途中で病に倒れ、タレントゥムで長期の療養を余儀なくされた。いったんローマに戻り、紀元前77年初めにはインテルレクスとして選挙を管理している。その後ようやくマケドニアに赴いたが、属州は北方トラキアのスコルディスキ族の侵攻に苦しめられていた。リウィウスはプルケルがいくつかの戦いで勝利したと書くが、オロシウスは「多くの失敗をおかした」とする。この戦争のさなかに病死した。
家族については、ローマで最も有力な一族のカエキリウス・メテッルス家の女性と結婚したとされ、バリアリクスかディアデマトゥスの娘であろうという。ただし妻はセルウィリウス氏族の女性だった可能性が高いともいわれる。3人の息子と3人の娘が生まれた。長男アッピウスは紀元前54年の執政官、次男ガイウスは紀元前56年の法務官となった。三男は30歳を過ぎてからプレブスの家に養子に入り、プブリウス・クロディウス・プルケルと名乗った。護民官になるためであり、のちにキケロを追放している。娘たちは、紀元前68年の執政官クィントゥス・マルキウス・レクス、紀元前74年の執政官ルクッルス、紀元前60年の執政官メテッルス・ケレルの妻となった。
同じ年に亡くなった人物
- Titus Quinctius Atta (紀元前76)
- アレクサンドロス・ヤンナイオス (紀元前76年没)
同じ地域に関係する人物
- ユリア (ガイウス・ユリウス・カエサルの娘) (紀元前54年没)
- Elio Morille (1998年没)
- パウルス2世 (ローマ教皇) (1471年没)
- ヴャチェスラフ・イヴァーノフ (1949年没)
- ベネディクト16世 (ローマ教皇) (2022年没)