HISTORICAL PERSON · 1934年没

ネストル・マフノ

ウクライナのアナキスト革命家。農民層をウクライナ革命反乱軍に組織して白軍を撃退したが、後にボリシェヴィキと対立した。

生涯
1934年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
ウクライナ(フリャイポーレ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ネストル・イヴァーノヴィチ・マフノは、1888年10月26日にロシア帝国エカテリノスラフ県のフリャイポレ(現在のウクライナ・ザポリージャ州)で生まれたウクライナのアナキストの革命家である。父を意味する「バーチコ」の名で呼ばれた。かつての農奴の貧しい農民の家の五男で、父はマフノが生後10か月のときに亡くなり、幼少期は大きな貧困に覆われた。7歳から羊飼いとして働き、8歳で冬は学校に通って夏は働く生活を送り、12歳で学校を完全にやめて、貴族の土地や裕福な農民の農場で働いた。13歳のとき、若い主人たちが馬丁の少年を殴るのを見て仲間を呼び、使用人たちが一斉に辞職を申し出て雇い主を怯えさせた。この最初の反抗が彼に深い印象を残したという。17歳のころには塗装工の見習い、のち鋳造所の労働者として働いた。

1905年の革命の中で、地元の「貧しい農民の同盟」というアナキストの若者の集団に加わり、1906年にアナキズム運動に参画して、同年に逮捕された。以降は本格的な活動家となった。「収奪」と呼ばれる活動の中で憲兵が一人殺され、1910年に死刑を宣告されたが、若さを理由に終身刑に減刑されたと伝えられる。強制労働の刑を受け、モスクワのブティルキ監獄に移された。1917年の二月革命で釈放されてフリャイポレに戻り、農民と労働者の自治委員会の組織に加わって、土地や工場の集団化を訴えた。

1918年、オーストリア・ハンガリー軍とドイツ軍、続いてウクライナ民族主義者の軍、最後にデニーキンらの白軍が、相次いでこの地方を荒らした。マフノは仲間とともに武装抵抗の運動を組織した。1919年にはこのゲリラ集団が、ウクライナ革命反乱軍と呼ばれる本格的な軍となり、黒軍とも呼ばれた。解放区はマフノフシチナと通称された。当初は革命の一部として行動して、赤軍と同盟し、ウクライナから白軍を撃退した。しかし、貧農の立場に立つマフノと、都市の工場労働者を重視して農民を軽視したボリシェヴィキとの対立から、デニーキンの白衛軍を破った後、マフノ軍と赤軍の戦端が開かれた。

1921年、軍が敗れてロシアを逃れ、ヨーロッパの複数の国から追放されたのち、1925年にパリに落ち着いた。ルノーの工場や大工、オペラ座などで働く一方、亡命ロシア人アナキストの雑誌に寄稿し、回想録を残した。1926年には五人の亡命アナキストと「アナキスト総同盟の組織綱領」の案をまとめたが、ヴォリンらはこれに反対した。1934年7月25日に結核で死去し、遺体は荼毘に付されてペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。葬儀には数百人が集まり、ヴォリンが弔辞を述べた。

赤軍による攻撃については、「スターリンの恐怖政治の先駆」とみる反スターリン主義的な解釈と、「小ブルジョア農民の権益のために革命政権を攻撃した者への正当な反撃」とするロシア共産党の史観がある。妻と娘のエレナは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツに拘束され、戦後はソ連の内務人民委員部に逮捕されてキエフで懲役の判決を受け、1953年に釈放されてカザフスタンで暮らした。日本では大杉栄が、マフノにちなんで息子に「ネストル」と名づけている。

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