伝記
アルベール1世は、1875年4月8日にブリュッセルで生まれ、1909年から1934年まで在位した第3代ベルギー国王である。第一次世界大戦での役割から、ベルギーでは「軍人の王」や「騎士王」と呼ばれる。父はレオポルド2世の弟でフランドル伯のフィリップ、母はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯の娘マリーで、五番目の子、次男であった。母はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の親戚にあたるカトリックの家柄の出である。フランドル伯の宮殿で育ち、当初は王位継承順位が3番目だったが、伯父の息子が早世し、王位に備えていた兄ボードゥアンも若くして亡くなったため、16歳で父に次ぐ2番目の継承者となった。元々王太子の家系ではなく、半ば偶然に王位に就くことになったためか、貴族的な趣味や社交界には関心を示さなかったとされる。
内気で勉強熱心な青年で、王の務めに向けて懸命に自らを鍛えた。若い頃はベルギーの労働者階級の状況を深く気にかけ、身分を隠して労働者の住む地区を歩き、暮らしぶりを観察したという。1900年10月2日、ミュンヘンでバイエルン公女エリーザベトと結婚した。親族の葬儀で出会った二人の婚約中や結婚後の書簡からは、深く愛し合い、国王と王妃という困難な務めを互いに支え励まし合っていたことがうかがえる。夫妻は2男1女をもうけた。長男は第4代国王となるレオポルド3世、次男はフランドル伯シャルル、長女マリー=ジョゼはのちにイタリア国王ウンベルト2世の妃となった。夫妻は科学者や芸術家、数学者、音楽家、哲学者らと親交を結び、ラーケン宮殿は一種の文化サロンのようになった。
1909年、直系の後継者がいなかった伯父レオポルド2世が崩御し、父もすでに1905年に亡くなっていたため即位した。前の国王たちが即位の宣誓をフランス語だけで行っていたのに対し、アルベールはオランダ語でも宣誓した。即位の直前には、1908年にベルギー領となったコンゴを視察し、国の状態が悪いと見て、現地の人々を守る改革や技術の進歩を勧告している。簡素で飾らない生活と家庭的な人柄は国民に愛され、尊大で私生活の乱れた先王よりも高い人気を得た。
第一次世界大戦に際してベルギーは中立を保っていたが、ドイツがシュリーフェン・プランに基づいて領内の通過を求めると、アルベールはこれに反発した。ドイツ軍が中立を犯して侵攻すると、国を守ることを最優先にして根気強く抵抗した。当時のベルギーの軍事力は、長い平和のためドイツ軍に劣り、緒戦では敗退したが、国土の一角を終戦まで死守した。連合国からの度重なる攻勢への参加要請はほとんど断り、ベルギー軍を必要以上の攻勢にさらして犠牲を増やすことなく戦い抜いた。戦後は1919年6月のヴェルサイユ条約や、戦後の復興、1929年に始まる世界恐慌の初期の時代を王として迎えた。
登山家としても名高く、「山男アルベール」「アルペンの王」と呼ばれ、1907年にはピッツ・カラルを初登頂した。1934年2月17日、ナミュール近くのマルシュ・レ・ダムにある高さ80メートルの岩塔群、ヴュー・ボン・デューに登るため王宮を出たが、深夜になっても戻らず、午前2時に捜索隊が遺体を発見した。当時は死因をめぐり様々な議論があったが、70年後に転落死であると結論づけられた。58歳であった。後を長男レオポルド3世が継いだ。その毅然とした戦時の態度は、第二次世界大戦時のレオポルド3世と比較され、今日でも国民の賞賛を得ている。
同じ年に亡くなった人物
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- Safvet beg Basagic (1934年没)
- ウォーリス・バッジ (1934年没)
- シドニー・ライリー (1934年没)
- ポール・ヴィエイユ (1934年没)
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