伝記
パウル・フォン・ヒンデンブルクは、1847年10月2日、プロイセン王国のポーゼンで、ユンカーの家の長男として生まれたドイツの陸軍軍人、政治家である。父は第18歩兵連隊の少尉ロベルト、母は軍医の娘ルイーゼだった。ベネッケンドルフ家は1280年にアルトマルクに興った代々軍人の家系で、1789年に男系の絶えたヒンデンブルク家と婚姻で結びついて統合した。タンネンベルクの戦いで名が有名になる以前は、ベネッケンドルフの姓で呼ばれることが多かったという。幼少期から厳格な軍隊的生活の中で育てられ、愚痴を述べると乳母が「分隊静粛にしろ!」と軍隊調に怒鳴りつけたと伝えられる。1859年にワールシュタットの士官学校に入り、1863年にベルリンのプロイセン高級士官学校に移って、1865年にはフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の王妃エリーザベトの近習を務めた。
1866年4月に士官学校を卒業して近衛歩兵第三連隊の少尉となり、同年の普墺戦争に従軍した。ケーニヒグレーツの戦いでの勇戦を認められ、1870年からの普仏戦争ではセダンの戦いに参加して鉄十字章を受けた。1871年1月18日にはヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われたヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式に、連隊の代表として参列している。以後は大きな戦争がなく、約40年を平時の軍隊勤務に過ごした。1873年に陸軍大学に入学し、1877年に卒業して、翌年に大尉となり参謀本部に配属された。1879年に歩兵大将の娘と結婚し、息子オスカーと二人の娘をもうけた。昇進を重ねて、1900年に中将、1904年に第4軍団長、1905年に歩兵大将となったが、参謀総長の後任候補に挙がりながら選ばれず、皇帝ヴィルヘルム2世からの覚えはよくなかったという。1911年、64歳で退役した。自伝によれば、戦争の気配がなく後進に道を譲るべきだと考えたためだが、翌年には皇帝に、戦時には軍司令官となる用意があると答申している。ハノーファーでは旅行や狩猟、絵画収集に興じて隠居生活を送った。
1914年7月末に第一次世界大戦が勃発すると、東プロイセンに侵攻したロシア軍に対し、第8軍司令官プリトヴィッツが錯乱して撤退を命じ、更迭された。後任には、勤続年数の長い老将軍であれば誰でもよいとされ、ハノーファーで暮らしていたヒンデンブルクが任じられ、参謀長のルーデンドルフ少将とともに赴いた。タンネンベルクの戦いでは、ロシア第2軍を包囲して司令官サムソノフが自決し、20万人のうち帰国できたのはわずか1万7000人だった。作戦立案は主にルーデンドルフらが行い、本人の役割は象徴的だったといわれるが、レンネンカンプ軍の偽情報で動揺が広がったときも、動じずに続行を命じた。8月26日に上級大将、11月27日に元帥となり、ドイツの国民的英雄として町の名や商品にその名がつけられた。本人は異様な英雄視に戸惑い、「もし戦いが有利に展開しなかったら、永久に呪われる名前はヒンデンブルクだった」と述べたという。
1916年に参謀総長となり、ルーデンドルフと「沈黙の独裁」と呼ばれる軍部独裁体制を築いた。戦後、共和制となったドイツで1925年にヴァイマル共和政の第2代大統領に当選し、1934年まで務めた。その間にアドルフ・ヒトラーを首相に任命し、国民社会主義ドイツ労働者党政権樹立への道を開くことになった。1934年8月2日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィレム・ド・ジッター (1934年没)
- レオナード・コケイン (1934年没)
- アルベール・ベナール (1934年没)
- ハインリヒ・ツー・メクレンブルク (1934年没)
- ユベール・リョテ (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- Bruno of Querfurt (1009年没)
- フリッツ・トート (1942年没)
- ギュンター・コルテン (1944年没)
- ヴェッセル・フライターク・フォン・ローリングホーフェン (1944年没)
- アレクサンドル・サムソノフ (1914年没)