伝記
エンゲルベルト・ドルフースは、1892年10月4日に生まれ、1934年7月25日に没したオーストリア第一共和国の政治家である。強権的な政権運営(オーストロファシズム)を行った独裁者として知られるが、オーストリア・ナチスと対立しており、最終的にその党員によって暗殺された。
ヨーゼフ・ヴェニンガーと恋人ヨーゼファ・ドルフースの間に生まれた。二人は貧農の出身で、財政上の理由から結婚できなかった。数か月後、母は地主のレオポルト・シュムンツと結婚したが、シュムンツは息子として受け入れなかった。ドルフースは敬虔なカトリック教徒として育ち、1904年に奨学金を得て神学校に進んだが、ウィーン大学で法律を専攻した。第一次世界大戦が勃発すると、身長が足りなかったにもかかわらず徴兵され、砲兵師団に配属されてイタリア戦線に従軍したが、1918年にイタリア軍の捕虜となった。戦後はウィーン大学に戻り、学生連合の代表となって、国家主義や反ユダヤ主義の思想を身に付けた。1919年からはベルリン大学で経済学を学び、農民協会で秘書を務めた。プロテスタントのアルヴィネ・グリエンケと出会って1921年に結婚し、1男2女をもうけた。
1922年に法学博士号を取得し、農務省で働いて農民協会の総裁を務めた。1927年にはニーダーエスターライヒ州の農業議会議長となり、キリスト教社会党に入党した。1930年にオーストリア連邦鉄道の総裁に任命され、1931年3月にエンダー内閣の農林大臣として入閣し、後継の内閣でも農相に留任した。国内ではナチ党の影響を受けたファシズムが勢力を拡大し、議会は社民党との対立もあって政情が不安定であった。1932年5月20日、大統領ミクラスの内示を受けて、キリスト教社会党・護国団・農業党の連立政権を発足させた。
首相としては、世界恐慌による問題に取り組んだが、議会で多数派になれず、デフレ政策は支持されなかった。1933年3月に国民議会議長らが辞任すると、「議会が責務を放棄した」ことを口実に、ミクラスに議会の無期限休会を進言して警察で議会を閉鎖し、緊急令による強権的な政権運営に乗り出した。背景には、ドイツでヒトラーが首相に就任し、ナチスがオーストリアで多数派になれば国が存続できなくなる危険があった。5月26日に共産党を、6月19日にはオーストリア・ナチスを非合法化し、キリスト教社会党以外の政党を解散させて、ムッソリーニをモデルとした独裁体制を確立した。1933年9月に祖国戦線を組織し、10月には暗殺未遂に遭った。1934年2月、蜂起した社民党を鎮圧して活動を禁じ(2月内乱)、4月30日の新憲法で議会に代わる職能代表の評議会を設けた。
1934年7月25日、オーストリア・ナチスの党員10人が首相官邸に押し入り、ドルフースを射殺してクーデターを試みた。ムッソリーニは盟友の死に妻子の前で涙を流して悼み、国境地帯に4個師団を派遣して、オーストリアの独立を保証すると宣言した。ヒトラーは事件への関与を否定した。葬儀には、約50万人が参列した。身長は150cmほどで当時のオーストリア人としても小柄であり、それを題材にしたジョークを集めて面白がっていたという。
同じ年に亡くなった人物
- ハリー・A・ポラード (1934年没)
- シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマ (1934年没)
- レイモン・ポアンカレ (1934年没)
- セオボールド・スミス (1934年没)
- ヴャチェスラフ・メンジンスキー (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・パリサ (1925年没)
- ヨーゼフ・ベーム (1876年没)
- ダニロ・ペトロヴィチ (1939年没)
- マリア・カロリーナ・ダズブルゴ (1814年没)
- マルティン・ファン・マイテンス (1770年没)