伝記
ジークベルト・タラッシュは、1862年3月5日にプロイセンのシュレージエン地方のブレスラウ(現在のポーランドのヴロツワフ)で生まれ、1934年2月17日にミュンヘンで没したドイツのチェスプレーヤーである。ヴロツワフは現在ポーランドの都市だが、彼が生まれた当時のブレスラウはドイツの都市であった。1914年に世界で最初にグランドマスターとなった5人のうちの一人で、他の4人はエマーヌエール・ラスカー、ホセ・ラウル・カパブランカ、アレクサンドル・アレヒン、フランク・マーシャルである。
ユダヤ人の家に生まれたが、1909年にルーテル派に改宗した。ブレスラウのザンクト・エリーザベト校で中等教育を終えたのは1880年で、その後ブレスラウ大学で医学を学び、医師として働いた。最初のトーナメント優勝は1883年のニュルンベルクである。その後、1889年のブレスラウ、1892年のドレスデン、1894年のライプツィヒのドイツ大会と、1890年のマンチェスターの英国大会で、続けて優勝した。1890年代初めには世界屈指の棋士となり、1893年にはチゴーリンと激戦のすえに9勝9敗4分けで引き分けている。同じ年、老いたシュタイニッツと世界タイトルをかけて指す話が持ち上がったが、医師の仕事の都合で応じられなかったという。1895年のヘイスティングスの大会では4位となり、1896年のサンクトペテルブルクの大会には参加しなかった。1898年のウィーンの大会では、病に倒れた米国のピルズベリーとの決定戦に勝って優勝し、1903年にはモンテカルロ、1907年にはオステンデで優勝した。
稀代の理論家として知られ、シュタイニッツの弱点である攻めの遅さに注目し、それをどう克服するかを考えた。提唱した「中原の理論」は、序盤でe4とd4のどちらのポーンで先に中央を占めるかが、その後の展開を決めるという考えである。彼がデビューした当時は1.e4が一般的だったが、この理論によって1.d4の優位が示されてチェス界を席捲し、「白が1.d4と指したら、黒はもう戦わずして負けたようなものだ」と冗談半分に言われた。やがて20世紀に入り、ニムゾ・インディアン・ディフェンスなど1.d4に対する新たな防御法が発見されるまで、その考えが支配的であった。クイーンズ・ギャンビットの変化の一つは、タラッシュ・ディフェンスと呼ばれる。「ドイツの教師」の異名で呼ばれ、その考えは教条的だったが、そのことが彼を偉大な教育者にしたともいわれる。ルークはパスポーンの後ろに置くべきだとする原則も、彼が示したものとされる。
1908年には、世界チャンピオンのラスカーの挑戦者となり、3勝5引き分け8敗に終わった。1914年のサンクトペテルブルクの大会では、5人の決勝進出者の一人となった。1905年にはマーシャルとの対戦に勝ち越している。その後の棋歴はあまり輝かしくはなかったが、愛される対局を指し続けた。ドイツの愛国者で、第一次世界大戦で息子を失ったが、ナチスの反ユダヤ主義にも苦しんだ。著書に『近代のチェス』『300局集』などがあり、1931年の『チェス・ゲーム』が最後の著作となって、大きな成功を収めた。
同じ年に亡くなった人物
- Charlie Gardiner (1934年没)
- ダキンフィールド・ヘンリー・スコット (1934年没)
- アレクサンダー・ムンロー (1934年没)
- ヴィクトル・カプラン (1934年没)
- カシアス・マーセラス・クーリッジ (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ペドロ・ロドリゲス (1971年没)
- フェルディナント・シェルナー (1973年没)
- アルトゥル・ザイス=インクヴァルト (1946年没)
- エルトマン・アウグスト・フォン・ブランデンブルク=バイロイト (1651年没)
- カール・オルフ (1982年没)