HISTORICAL PERSON · 1934年没

セルゲイ・キーロフ

ソ連の革命家・政治家。孤児院で育ち、ボリシェヴィキの組織責任者や各地の革命政権樹立に関わった。1926年にレニングラードの州委員会第一書記に着任し、1930年に政治局員となった。

生涯
1934年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ロシア連邦(ウルジューム)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフは、1886年3月27日(ユリウス暦3月15日)、ヴャトカ県のウルジュムに生まれたソビエト連邦の革命家・政治家である。本姓はコーストリコフという。父ミロンと母エカテリーナのあいだに生まれた七人の子のうち、最初の四人は幼くして亡くなり、育ったのはアンナ、セルゲイ、エリザヴェータの三人だった。酒におぼれた父は1890年ごろに家族を捨て、母は1893年に結核で亡くなった。きょうだいは父方の祖母に短期間引き取られたが、祖母の少ない年金では養いきれず、七歳のセルゲイは知人の伝手で孤児院に入った。それでも姉妹や祖母とは定期的に会っていたという。

1901年、裕福な篤志家たちの奨学金を得てカザンの工業学校に入り、卒業後にシベリアのトムスクへ移ってマルクス主義者となり、1904年にロシア社会民主労働党に入党した。1905年の革命に加わって逮捕され、釈放後にボリシェヴィキの側についた。1906年に違法文書の印刷の罪で再び逮捕され、3年余り投獄される。のちにカフカースへ移り、1917年の二月革命でツァーリが退位するまで同地にとどまった。キーロフという名は革命家のあいだで流行した改姓の一つで、1912年4月にその筆名で初めて文章を発表している。1914年には北カフカースでボリシェヴィキの組織責任者となった。内戦期にはアストラハンの軍事革命委員会議長として赤軍のために戦い、1919年3月のアストラハンでは血なまぐさい手段で権力を固めたと、歴史家モンテフィオーリは書く。1920年から1922年にはザカフカース各地で革命政権の樹立に関与した。

1921年にアゼルバイジャン共産党の第一書記となり、1923年にロシア共産党中央委員に選ばれた。1926年、ジノヴィエフの拠点だったレニングラードの州委員会第一書記に着任して、ジノヴィエフの影響を一掃した。1930年に政治局員となり、農業集団化ではクラークの弾圧に力を入れ、スターリンに並ぶ有力者と見られるようになった。1934年2月には党中央委員会書記と組織局員を兼ねた。スターリンとの関係については、友人として忠実に支えたとする見方と、1932年ごろから強硬なスターリンと穏健なキーロフの間に確執が生じていたとする見方がある。1934年の第十七回党大会では、一部の代議員の間にスターリンを書記長から外してキーロフを据えようとする動きがあったが、キーロフ本人が退けたと伝えられる。

1934年12月1日午後4時半ごろ、レニングラード党本部の執務室へ向かう廊下で、待ち構えていたレオニード・ニコラエフに背後から拳銃で首を撃たれ、殺害された。ニコラエフは職場でのトラブルから公職を離れ、自分を「歴史的な暗殺者」と思い込んでいた。以前にも拳銃を持ってうろついて逮捕されながら釈放されており、当日は警備員が持ち場を離れていたことから、内務人民委員部の関与が疑われている。ニコラエフは12月29日に死刑判決を受け、その夜に銃殺された。スターリンは「陰謀」の存在を主張して反対派への弾圧を強め、事件は1937年以降の大粛清の契機となった。ジノヴィエフやカーメネフらが連座して処刑された。のちにフルシチョフはスターリンの関与を示唆したが、ソ連崩壊後の機密資料からも、スターリンの指示を示す直接の証拠は見つかっていない。

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