伝記
アレクサンダル1世は、1888年12月16日、モンテネグロ公国の首都ツェティニェに、のちのセルビア王ペータル1世と王妃ゾルカの次男として生まれた。当時のセルビアはオブレノヴィッチ家の支配下にあり、カラジョルジェヴィッチ家は政治的な亡命の身で、一族は欧州各地に散らばっていた。母ゾルカは、アレクサンダルが2歳の1890年に、弟アンドレを産む際の合併症で亡くなった。幼少期をモンテネグロで過ごしたのち、1894年に父は4人の子を連れてジュネーヴへ移り、少年はそこで初等教育を終えた。その後、兄ジョルジェとともにロシアのサンクトペテルブルクへ移り、帝室の小姓学校で学んだ。
イギリスの歴史家ロバート・シートン=ワトソンは、彼がこの地でロシアびいきになったと述べている。皇帝ニコライ2世が亡命の王家の子を手厚く迎え、冬宮殿の食事にも招いたからである。小姓としては勤勉で意志が強い一方、感情をあまり表に出さない「一匹狼」だったという。修道院を訪ねて僧院長からアレクサンドル・ネフスキーの聖像を贈られ、スヴォーロフ元帥の墓へ案内されると、自分も大軍を率いる将軍になりたいと語ったとされる。
1903年にセルビアで5月クーデターが起こり、国王夫妻が殺害されて、父ペータル1世がセルビア王に即位した。それでもアレクサンダルは、父に乞うて欧州各地を見聞して回った。1909年に兄ジョルジェが廃嫡されたため、新たに王太子となる。第一次バルカン戦争中の1913年にはクマノヴォの戦いで大功を立てた。第一次世界大戦でセルビアが占領されると、南スラヴの統一を掲げて運動し、戦後のユーゴスラビアの形成に貢献した。1921年に父の死でセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の王位を継いだが、セルビア人中心の専制的な体制を築いたため、クロアチア人の激しい反発を招いた。
1928年6月20日、国会の議場でクロアチア農民党の指導者スチェパン・ラディチが射殺され、民族対立で議会が機能しなくなった。これを理由に、1929年1月6日にクーデターを起こして独裁政治を始め、10月3日には国名をユーゴスラビア王国と改めた。国土はベオグラードの直轄市と、民族分布ではなく分水嶺などの地形で区切った9つの州に分けられ、州名も主要河川から名づけられたが、クロアチア人はかえって体制への反感を強めた。1932年11月にクロアチア自治派らがザグレブで完全な自治を求める決議を表明すると、翌1933年、政府はセルビア系以外の政治勢力を弾圧し、多くの政治家が投獄や国外追放の憂き目にあった。事態を憂慮した王は1933年12月から約1か月ザグレブを訪れて人心の緩和に努めたが、効果は薄かった。
1934年10月9日、国賓として訪れたマルセイユで、フランス外相ルイ・バルトゥーと同じ車に乗っているところを狙撃され、暗殺された。犯人はマケドニアの民族主義組織の一員で、クロアチアのウスタシャと協力していた。バルトゥーも流れ弾で重傷を負い、まもなく亡くなった。ユーゴスラビアは犯人の背後にハンガリーがあるとして国際連盟に訴え、理事会は一時緊張した。王位は11歳の息子ペータル2世が継ぎ、いとこのパヴレ公が摂政を務めた。死後、クロアチア人への過剰な抑圧は放棄されたが、民族問題の解決には至らなかった。
同じ年に亡くなった人物
- アウグスト・ペスタナ (1934年没)
- カール・シャーリエ (1934年没)
- エルネスト・ナザレー (1934年没)
- Charlie Gardiner (1934年没)
- ジャン・ヴィゴ (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- ミシェル・ヴォヴェル (2018年没)
- ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク (1637年没)
- イヴェット・ギルベール (1944年没)
- ジャン=ジャック・マルセル (2014年没)
- ポール・セザンヌ (1906年没)