伝記
ポール・セザンヌは、1839年1月19日に南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれ、1906年10月23日に没したフランスの画家である。墓碑には10月22日と記されているが、近年は23日説が有力とされる。当初はモネやルノワールらとともに印象派のグループの一員だったが、1880年代から離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、「近代絵画の父」と呼ばれる。父ルイ=オーギュストは、最初は帽子の行商人だったが、商才があって地元の銀行を買収し、銀行経営者となった成功者だった。母アンヌ=エリザベートは椅子職人の娘で、もともと父の使用人であり、出生時には二人は内縁関係にあって、1844年に入籍した。
10歳でエクスのサン=ジョゼフ校に入り、13歳でブルボン中等学校に移ると、下級生のエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていたが、セザンヌは、ゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、翌日ゾラがリンゴの籠を贈ってきたと後年に語っている。のちに天文学者になるもう一人の少年と三人は、散歩や水泳を楽しみ、詩への情熱を共有した。1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、1858年にバカロレアに合格すると、父の希望でエクス大学の法学部に通ったが、法律の勉強にはなじめなかった。パリに出ていたゾラは、手紙で「絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな」と励まし、パリに出て絵を学ぶよう繰り返し勧めた。
1861年4月、大学を中退してパリへ出た。ルーヴル美術館でベラスケスやカラヴァッジョに感銘を受けたが、官立の美術学校への入学は断られ、画塾アカデミー・シュイスに通って、カミーユ・ピサロやギヨマンと出会ったが、同年9月にはエクスへ帰った。銀行勤めはうまく行かず、翌年の秋に再びパリへ戻った。1865年にサロンに応募して落選し、その後も数年にわたり落選を重ねた。それでも、当たり障りのない作品で入選を狙うのではなく、最も攻撃的な作品を送り、拒否する審査委員会の方が悪いと示すべきだと考えていた。1869年、のちに妻となるオルタンス・フィケと知り合ったが、厳格な父を恐れて関係を隠し続けた。父の月200フランの仕送りで二人の生活を支え、苦しかった。普仏戦争が起こると、母が用意したエスタックの家に移り、兵役を逃れた。
1872年、フィケと生まれたばかりの息子ポールを連れてポントワーズに移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。ここで印象主義の技法を習得し、色調が明るくなった。1874年の第1回印象派展に3点を出品したが、酷評された。ゾラは無署名の記事で擁護し、『首吊りの家』は高値で買い上げられた。1879年ごろから制作の場を故郷エクスに移し、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序を追求するようになった。1882年に一度サロンに入選したほかは、公に認められなかったが、若い画家や批評家の間で評価が高まった。1886年にゾラが小説『制作』を発表したころから疎遠になった。1895年、画商ヴォラールが開いた個展が成功し、パリでも知られるようになった。「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、キュビスムにも影響を与えた。1906年、制作中に発病した肺炎のため亡くなった。没後の1907年にサロン・ドートンヌで開かれた回顧展には、ピカソやブラック、マティスらが訪れた。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルギー・ガポン (1906年没)
- フリードリヒ・バイルシュタイン (1906年没)
- アルフレッド・ステヴァンス (1906年没)
- エルンスト・シュルツ (1906年没)
- ウォルター・ウェルドン (1906年没)
同じ地域に関係する人物
- コクシネル (2006年没)
- アルチュール・ランボー (1891年没)
- パルラディ (カファロフ) (1878年没)
- ジャンヌ・カルマン (1997年没)
- ジョルジオ・ブッシャー (1992年没)