伝記
ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスは、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国の第2代皇帝(在位1222年〜1254年)である。1192年または1193年ごろに、トラキアのディディモティコで生まれ、1254年11月3日にニンファイオンで没した。てんかん持ちであったという。父は東方軍の司令官を務めたバシレイオス・ドゥーカス・ヴァタツェス、母はアンゲロス家の血を引く女性で、ヴァタツェス家はトラキアの大きな軍人の家系で、ドゥーカス家やアンゲロス家、ラスカリス家などの有力な家とも縁戚関係にあった。
1204年にコンスタンティノープルが十字軍に征服されると、ニカイア帝国の建国者テオドロス1世ラスカリスが首都に選んだニンファイオンへ赴いた。宮廷の司祭であった叔父の口添えで皇帝に仕えるようになり、皇帝はその才能と人格を評価して、プロトウェスティアリオスの称号を与えた。非凡な軍人として勇名を馳せたこともあり、1212年に皇帝の娘イレーネー・ラスカリナと結婚し、成人した後継者を持たない皇帝から後継者に指名された。1221年には、後に第3代皇帝となるテオドロス2世が生まれた。しかしイレーネーは出産後に落馬して重傷を負い、以後は子を産めなくなったため、エウゲニアと改名して修道女となり、1239年に他界した。ヨハネスは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の私生児であるシチリア王女コンスタンツェ(またはアンナ)と再婚したが、子には恵まれなかった。1222年1月にテオドロス1世が没すると、総主教により戴冠した。
即位すると、テオドロスの弟のアレクシオスとイサキオスが継承に異議を唱えて反乱を起こしたが、ヨハネスは戦いに勝ち、二人を捕らえて目をつぶしたとされる。ラテン帝国はこの反乱を支援していたが、1224年のペマネノンの戦いで敗れ、小アジアのほとんどを失った。海軍を築いてエーゲ海の島々を得て、1232年から33年にはロドス島の統治者に、皇帝の宗主権を認めさせた。ルーム・セルジューク朝の了解を得て東部の前線を守りながら、ヨーロッパ側の旧領の回復に乗り出し、フランス人傭兵も投入してラテン帝国軍を敗走させた。1235年には、ブルガリアの皇帝イヴァン・アセン2世と結んでコンスタンティノープルを攻囲したが、これは失敗に終わった。ただし、この戦いでエピロスのテオドロス・コムネノス・ドゥーカスを破ったともいわれる。その後、アセンは同盟相手の強大化を警戒して宣戦したが、1237年に和平が結ばれ、1241年にアセンが没すると、ヨハネスはブルガリアの領土を併合し、エピロスを攻めた。1242年には、エピロスにニカイアの宗主権を認めさせたという。テッサロニキの諸侯やエピロス専制侯国に対しては、大きな権限を握った。1250年ごろにはフリードリヒ2世の封臣となる約束と引き換えに援助を求めたが、成果は乏しかった。コンスタンティノープルを返還するならば東西教会の分裂を終わらせると教皇庁に持ちかけたこともあるが、これも実らなかった。
内政では農業や牧畜を振興し、病院や福祉施設を建てて善政を敷いた。そのためニカイア帝国はレバントで最強にして最も豊かな国となり、ニカイアの文化も栄えた。ニカイア帝国が失地の回復に成功したのは、彼の功績が大きいとされる。没後約50年を経て、正教会で聖人とされた。
同じ年に亡くなった人物
- Rudolf von Ems (1254年)
- Manuel II of Constantinople (1254年)
- アル=アシュラフ・ムーサー (1254年)
- インノケンティウス4世 (ローマ教皇) (1254年没)
- インゲボリ・エリクスドッテル・アヴ・スヴェーリエ (1254年没)
同じ地域に関係する人物
- アッタロス3世 (紀元前133年没)
- Nevin Cokay (2012年没)
- アフメト・アリ・チェリクテン (1969年没)
- オリバシウス (403年没)
- フィレタイロス (紀元前263年没)