伝記
オグルガイミシュは、モンゴル帝国第3代皇帝グユクの皇后である。『元史』などの漢文史料では斡兀立海迷失と記される。メルキト部族の出身で、ネストリウス派のキリスト教徒だったという。メルキトはチンギス・カンに1204年に従えられ、1216年の反乱ののち1218年にスブタイに指導者を討たれて、生き残りは奴隷として散らされた部族である。1220年代の初めにオゴデイの長男グユクに嫁ぎ、息子コジャとナクを産んだ。
1248年にグユクが急死した。西へ向かう遠征の途中で病が重くなり、4月にクム・センギルで没したともされる。オグルガイミシュは、バトゥとソルコクタニ・ベキの勧めで摂政となり、遺体を自分の領地へ運んで葬った。モンゴルの慣習では、カアンの葬儀と次のカアンを決めるクリルタイを寡婦が取り仕切る。彼女はかつてのドレゲネに倣い、オゴデイ家から次のカアンを出そうとして、オゴデイがかつて後継者に定めていた孫のシレムンを推した。だが、政治に積極的ではなく、国の運営を怠って、多くの時間を呪術師と過ごしたともいわれる。息子たちも母とは別の動きをした。
クリルタイをめぐっては、バトゥが自分の陣営の近くで開くと言い、不満をもつ多くの人々が出席しなかった。オグルガイミシュも出ず、使者を送った。使者はシレムンが後継者に任じられたことを持ち出して、シレムンこそが次のカアンだと主張した。トルイ家のモゲは「オゴデイ・カアンの命に誰が逆らおうか。しかし以前のクリルタイでグユクを立てたのはドレゲネらであって、最初にオゴデイの命に逆らったのは汝らである」と反駁し、オゴデイ家の側は反論できなかった。こうして、トルイの子モンケが第4代のカアンとなった。
モンケの即位後の1252年、シレムンがモンケの暗殺を企てたとして捕らえられ、オグルガイミシュはモンケの側近モンケセルから尋問を受けた。全裸にされても「この体は君主であるハーン様以外には見せない」と必死に抵抗したという。同じ1252年の8月、彼女は白いフェルトの袋に包まれ、川に沈められて殺された。没年を1251年とする説もある。のちに欽淑皇后と諡された。
同じ年に亡くなった人物
- ボニファーチョ2世 (1253年没)
- オットー2世 (バイエルン公) (1253年没)
- アッシジのキアラ (1253年没)
- チチェスターのリチャード (1253年)
- コルトナのエリア (1253年)
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