伝記
カラ・フレグは、チンギス・カンの曾孫にあたるチャガタイ・ウルスの当主である。チャガタイの長男モエトゥケンの四男で、兄にバイジュ、ブリ、イェスン・トアがいる。生年は1221年ともされる。父はバーミヤーン攻囲戦で亡くなっており、祖父チャガタイに後継者として望まれた。オゴデイにも当主に推されたとされる。「元史」には合剌旭烈大王の名で見え、ペルシア語の史料ではカラー・フーラークーなどとも書かれる。
1242年にチャガタイが没すると、カラ・フレグがウルスを継いだ。まだ幼かったため、母エブスクンが摂政として政務を執った。1246年、グユクが皇帝に即位すると、カラ・フレグは当主の座を追われた。グユクは、息子が生きているのに孫を当主に選ぶのは不可解だとして、チャガタイの子で親しい友人でもあったイェス・モンケにウルスを与えた。同じ年、有罪とされ連行されてきたイランの総督コルグズを、カラ・フレグは口に土を詰めて処刑したという。
グユクの死後、トルイの子モンケが新たな皇帝に推されると、オゴデイ家とイェス・モンケはこれに反対した。一方でカラ・フレグは、チャガタイ家の王族の中では長くトルイの子孫の側を支持していたとされる。1251年にモンケが即位すると、モンケは自分の即位に反対した勢力を粛清し、1252年にカラ・フレグを当主に戻して、イェス・モンケの処刑を託した。ところがカラ・フレグは任地へ向かう途中、病んでいたともいわれ、その年のうちに没した。役目は妃オルガナが引き継いでイェス・モンケを処刑し、そのままウルスの政務を代行した。1261年まで国を預かったともいう。
妃のオルクナ・ハトゥン(オルガナ)は、オイラト王家のトレルチ・キュレゲンとチンギス・カンの娘チェチェゲンの娘で、二人の子ムバーラク・シャーが父の後を継ぎ、母が摂政となった。ほかにトゥグルク・シャーとバイラームという娘がいたらしい。トゥグルク・シャーはスルドス部の武将マング=テムルに嫁ぎ、その娘イディ・クルトカはイルハン朝のガザンの妃となった。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィテルボのローザ (1252年)
- ザベル (キリキア・アルメニア王国女王) (1252年没)
- フェルナンド3世 (カスティーリャ王) (1252年没)
- オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1252年没)
- ブランシュ・ド・カスティーユ (1252年没)
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