HISTORICAL PERSON · 1252年没

プラノ・カルピニ

イタリアのフランシスコ会修道士。1245年に教皇インノケンティウス4世の命を受け、モンゴルのバトゥのもとへ使節として派遣された。1247年からアンティヴァリ司教。

生涯
1252年没
死亡地
モンテネグロ(バール)
出生地
イタリア共和国(マジョーネ)
出典
世界地図
モンテネグロ(バール)

伝記

プラノ・カルピニは、一一八二年に生まれ、一二五二年八月一日に没したフランシスコ会の修道士である。本名はイタリア語でジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネというが、ラテン語読みのプラノ・カルピニの名で知られる。出身地はペルージャに近い、ピアン・ディ・カルピネの村とされる。イタリアのフランシスコ会に属し、ローマ教皇の命を受けて神聖ローマ帝国やカスティリャ王国などで布教に従事した。その経緯から有力な修道士として名が知られ、管区長に任命された。のちには一二四七年から一二五二年までアンティヴァリの司教を務めたとされるが、帰国後にダルマチアの大司教に任じられたとも伝えられる。

一二四一年のワールシュタットの戦いをきっかけに、モンゴル帝国の脅威が東欧と西欧に迫った。一二四五年の第一回リヨン公会議でモンゴルとの交渉が決まると、カルピニは教皇インノケンティウス4世の命を受け、東欧に勢力を広げていたバトゥのもとへ派遣された。使節はカルピニと、同じ修道会のボヘミア出身のステファンの二名で、途中でポーランド出身のベネディクトが加わって三名となった。道中の諸侯に護衛や召使を数名つけてもらう程度の、教皇使節としては小規模な一行だった。面会したバトゥは、グユク汗のもとへ行くよう命じた。カルピニはバトゥが建てたサライの様子などを見て、部下への思いやりがあり、同時に大変恐れられていると述べ、偉大なる賢君と称えた。一方で、戦闘中の残酷さと狡猾さにも言及し、徹底的に破壊されたキエフなどを見て、名君だが暴君でもあると辛口に評している。

一行はさらにモンゴル帝国の首都カラコルムへ赴き、到着直後の一二四六年八月二十四日に、グユクの即位式のクリルタイに列席した。カルピニはグユクに会見して教皇の親書を手渡し、和睦を求めたが、グユクが望んだのは和睦ではなく、教皇をはじめとする西欧諸国の臣従であり、交渉は果たせなかった。そのため帰国後は一時、教皇の怒りを買った。しかし、彼が記した『モンゴル人の歴史』が高く評価され、のちに怒りは解かれたという。この報告書で彼自身はあまり厚遇されなかったかのように述べているが、記述を総合すると、教皇庁からの正式な使節として相応の応対を受けていたことがうかがえる。モンゴル側の史料である『集史』にも、グユクの即位の場面で西欧側の使節として、他国の使節とともに記されている。

グユクが教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語の勅書は、カルピニが持ち帰り、現在もバチカン図書館に保存されている。作成の経緯がはっきりしているモンゴル帝国の命令文書としては最古の部類に入る。内容は、バトゥ軍のハンガリーやポーランドへの遠征に対する非難を退けるとともに、モンゴルが天から世界の支配を預かっていると宣言し、教皇と諸国の君主に帰順を求めるものだった。拒めば再び武力で討伐するとの警告も付されていた。ローマ教皇はこの勅書で初めて紙を手にしたともいわれるが、シチリアには一一〇二年に製紙工場が建っており、紙は既に伝わっていた可能性もあるとされる。

帰国後は西欧各地でモンゴル帝国について語り、一二五二年に七十一歳で世を去った。『モンゴル人の歴史』は、当時のモンゴルの風習や軍事、政治制度を詳しく伝える報告書として、今も同時代の史料として評価が高い。

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