伝記
ルキウス・アッキウス(アッティウスとも)は、共和政ローマ期の悲劇詩人であり、文学研究者でもあった人物である。紀元前170年、ガリア人の土地に紀元前184年に建設された町ピサウルムで生まれたとされる。解放奴隷の男女の子で、両親はおそらくローマの出であった。アッキウスという氏族名はイタリア系の地域には広まっていたが、ローマには多くなかった。没年は不明で、紀元前86年ごろ、あるいは紀元前83年ともされる。キケロが、自分より64歳年上のアッキウスと文学について語り合ったと伝えており、相当な高齢まで生きたと考えられる。
詩人としての活動は紀元前140年から紀元前104年までの36年間にわたってたどることができる。最初期の作品はおそらく上演が紀元前140年とされる「アトレウス」で、現在は失われている。作品の多くはギリシア悲劇、とりわけアイスキュロスなどの模倣や自由な翻訳であったが、ローマの題材も扱い、暴君タルクィニウス・スペルブスの追放を描いた「ブルトゥス」は、庇護者デキムス・ブルトゥスに捧げられたらしい。好んだ主題はトロイア戦争とペロプス家の伝説であった。一説には悲劇46作と、ローマ史に取材した劇2作が彼のものとされる。作品はテーバイ戦争とトロイア戦争の二つの大きな連作にまとめられ、各連作が三部作を八組ずつ含むという独自の構成をとったと論じられている。また言葉の力強さと思想の崇高さを称えられたが、その大げさな文体を同時代人から揶揄されることもあった。
悲劇のほかに、ギリシアとローマの詩と演劇の歴史を詩で論じた「教訓書」、六歩格の「年代記」などを著した。全体で五十ほどの作品の題名と、あわせて約700行の断片が残るにとどまり、完全な作品は伝わらない。断片の多くは文法や語彙の用例として文法家たちが引いたもので、重要なものはキケロも保存している。確実に彼のものとされる断片は726行ほどで、文法家の伝承が691行のうち580行を占め、最大の引用元はノニウス・マルケッルスの492行である。ほかにフェストゥス、マクロビウス、プリスキアヌスらが引いており、文脈から切り離された引用が多い。
文法や綴りの改革にも取り組み、書かれたラテン語を実際の発音に近づけようとした。ほとんどは定着しなかったが、ギリシア語の名前にラテン語の語尾を付けない主張には支持者がおり、ウァッロは著書「文字の古さについて」をアッキウスに献呈した。長母音を母音の重ね書きで示す綴りも、彼と結びつけられている。政治的には保守的で、威厳があり控えめな人物として知られた。ただし、文才のある者は、努力もなく貴族に生まれただけの者より敬われるべきだと考えていたという。自負心の強い人だったともいわれ、ムーサの神殿に自分の巨大な像を建てさせた。大プリニウスは、本人は小柄だったのにその像はとても大きかったと記し、これを面白がる書き手もいた。
彼の悲劇「アトレウス」の一節にある「憎むなら憎め、恐れるかぎり」という台詞は、最も有名な科白で、のちにカリグラも引用したとされる。作品は没後数十年を経ても上演され、長く演目に残った。キケロ、ホラティウス、オウィディウス、クインティリアヌスらが彼を引いており、ウェッレイウス・パテルクルスは彼をギリシアの悲劇詩人に比べた。一方で、セネカ、ペルシウス、マルティアリスは厳しい評価を下した。
同じ年に亡くなった人物
- ラリッサのピロン (紀元前 83年)
- ガイウス・ファビウス・フィンブリア (紀元前83)
- アンティオコス12世 (紀元前83)
同じ地域に関係する人物
- タキトゥス (120年代没)
- カルロ・エミリオ・ガッダ (1973年没)
- フィリップ・フォン・ヘッセン (1980年没)
- Alberto Ghilardi (1971年没)
- シャルロット・ド・リュジニャン (1487年没)