伝記
アンティオコス12世ディオニュソスは、ヘレニズム期のセレウコス朝の君主で、紀元前87年から82年までシリア王として在位した。生年は紀元前124年から109年のあいだとされ、没年は紀元前82年である。正式にはエピファネス、フィロパトル、カリニコス、ディオニュソスという称号を連ねた。当時の君主は番号を用いず、称号で同名の王と区別しており、番号を付けるのは後世の慣行である。
アンティオコス8世と、プトレマイオス朝エジプト出身の妃トリュファイナの五男で、末子にあたる。両親の結婚は紀元前124年である。紀元前109年、トリュファイナは、父と王位を争っていた父の異母兄弟アンティオコス9世に殺された。紀元前96年にアンティオコス8世が暗殺されたのち、その二番目の妻でトリュファイナの姉妹のクレオパトラ・セレネは、アンティオコス9世、続いてその子アンティオコス10世と結婚した。アンティオコス10世は、12世の兄たちセレウコス6世、アンティオコス11世、ピリッポス1世、デメトリオス3世と王位を争った。紀元前88年には、残る兄弟はデメトリオス3世とピリッポス1世だけになった。デメトリオス3世は初めダマスカスを拠点とし、のちにシリアの大半に支配を広げたが、紀元前87年にピリッポス1世とそのパルティア人の同盟者に敗れ、パルティアへ亡命した。ピリッポス1世は首都アンティオキアを押さえ、未亡人となったクレオパトラ・セレネは、アンティオコス10世との間の息子たちとともにプトレマイスに避難した。
デメトリオス3世が去ったダマスカスの権力の空白を埋めたのが、アンティオコス12世である。デメトリオス3世の時代の貨幣はセレウコス暦225年(紀元前88/87年)のものだが、12世の最初の貨幣は226年(紀元前87/86年)の日付をもつ。このことから、速やかに権力を握ったとみられる。貨幣には父に似せた誇張した鷲鼻の肖像を刻み、継承の正統性を強めようとした。称号のうちエピファネスは父も用いたものであり、フィロパトルとカリニコスは、祖父デメトリオス2世の系統を強調し、アンティオコス7世の系統であるアンティオコス9世とその子孫に対抗するものだった。ディオニュソスは、東方の征服者としてのぶどう酒の神と結びつけるためだったと思われる。
領土はダマスカスを中心とするシリア内陸部に限られ、ダマスカスが首都と主要な造幣所を兼ねた。兄ピリッポス1世の領土の拡大は図らず、ピリッポス1世がダマスカスの併合を試みたときは撃退した。関心は南に向かい、ユダヤ人とナバテア人の勢力拡大に備えた。ガダラも支配下にあった。ガダラはユダヤのハスモン朝王アレクサンドロス・ヤンナイオスが紀元前100年に征服して城壁を一部壊したが、紀元前93年にセレウコス朝が取り戻していた。南方作戦の軍事拠点として重要だったため、セレウコス暦228年(紀元前85/84年)にその防備を築き直した。ヨセフスが「アンティオコスの塹壕」と呼ぶ溝を、ダマスカスをナバテア人から守るために掘らせたとする説もある。銀貨の裏には、通常のギリシアの神々でなく、セム系の最高神ハダドを刻んだ。王国の縮小を受けて地元の信仰が重要だと考えたためかもしれないとされる。
ナバテア王国へは2度の遠征を行い、ユダヤとも戦った。最初の遠征ではいくつかの勝利を収めたが、2度目の遠征の終わり近く、紀元前82年のカナの戦いで戦死した。王位はクレオパトラ・セレネとその息子アンティオコス13世が主張し、ダマスカスはナバテア王アレタス3世の軍に奪われた。
同じ年に亡くなった人物
- ラリッサのピロン (紀元前 83年)
- ガイウス・ファビウス・フィンブリア (紀元前83)
- ルシウス・アシウス (紀元前83)
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