伝記
グユクは、1206年に生まれ、1248年4月20日に没したモンゴル帝国の第3代皇帝である。在位は1246年8月24日から1248年4月20日まで。第2代皇帝オゴデイの長男で、母は第6皇后のドレゲネである。父はモンゴル皇帝として初めて「カアン」を名乗ったが、グユクはこの称号を父だけのものと考えたのか、自らはもっぱら「カン」の称号だけを名乗ったと考えられている。
若いころのグユクは、父が即位前に領有したバルハシ湖近傍のエミル・コボク地方を領地として与えられた。1233年には満州に出兵し、大真国の蒲鮮万奴を討つ功績を挙げた。1235年にオゴデイがカラコルムを首都と定め、召集されたクリルタイでヨーロッパ遠征や南宋遠征が決まると、グユクはオゴデイ家を代表して、ジョチ家の当主バトゥを総司令官とする西方遠征に従軍した。トルイ家のモンケらとともにルーシ遠征で活躍し、1239年にはモンケとアラン人との戦いで戦果を挙げた。ところが『元朝秘史』や『集史』によると、遠征中の酒宴でチャガタイ家のブリがジョチ家の王子たちと口論となり、総大将のバトゥを面罵した。グユクもこれに同調したと伝えられる。報告を受けたオゴデイは激怒して二人を本国へ召還したが、オゴデイは1241年、グユクが帰国する途上で病没した。
オゴデイは生前、三男のクチュを後継者に定めていたが、クチュは1236年に南宋方面の前線で陣没しており、その長男シレムンを寵愛して宮中で養育していた。父の訃報に接したグユクがエミルに到着すると、帝位を狙ったチンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンは断念した。バトゥはグユクとドレゲネを嫌ってクリルタイへの参加を拒み続け、長老を欠いたまま後継者を決めることに反対する声も上がった。しかしドレゲネがクリルタイの開催を強行し、政治工作もあって全員がグユクを後継者に選んだ。1246年8月24日、チンギス・カンの即位ゆかりの地ココ・ナウルで、グユクは第3代カアンに即位した。この式にはバトゥが体調不良を口実に欠席し、代わりに異母兄オルダらが出席した。ローマ教皇の使節として訪れたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士も参列している。
即位後、グユクは10月から親政を始めた。まず、ドレゲネの側近ファーティマ・ハトゥンを、呪術でコデンを呪い殺したという罪状で処刑し、ドレゲネの摂政期に乱発された勅令を廃止して、諸王の権力の乱用を抑えた。チンカイらを復職させ、専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンも処刑した。これらの政策は、母の統治を否定し、オゴデイの方針を継承するものであったといえる。軍事面では南宋・イラン・高麗に兵を送り、ルーム・セルジューク朝のスルターンを交代させ、グルジア王国を二つに分割した。1246年11月の日付を持つグユクの勅書は、教皇に宛て、服従しなければ敵とみなすと回答したものであり、現存するモンゴル皇帝の勅書として最古級の実物である。グユクは病のため大臣のチンカイとカダクに政務を委ね、ネストリウス派のカダクの影響でキリスト教は厚遇を受けた。1248年、西征の途上、旧領のビシュバリク方面で急死した。酒色による病死といわれるが、バトゥによる暗殺を疑う説もある。死後、皇后オグルガイミシュが摂政となったが、モンケらとバトゥが招請を拒み、皇帝位は約4年空席となった。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・バイタール (1248年没)
- クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン (1248年没)
- サンシュ2世 (ポルトガル王) (1248年没)
- ヨランド・ド・ドルー (ブルゴーニュ公妃) (1248年没)
- アル=アーディル2世 (1248年没)