伝記
オトン3世は、1208年に生まれ、1248年6月19日に40歳で没したアンデクス家の貴族で、ブルゴーニュ伯であり、ドイツ語ではメラーン公オットー2世とも呼ばれる。メラーン公オットー1世とブルゴーニュ女伯ベアトリス2世の間に生まれた唯一の息子であった。母はブルゴーニュ伯オットー1世の娘で、父はこの結婚によってブルゴーニュ宮中伯の地位を得ていた。姉妹にアグネスがおり、のちにオーストリア公フリードリヒ2世と、次いでケルンテン公ウルリヒ3世と結婚した。1226年にはシャンパーニュ伯ティボー4世の長女ブランシュとの婚約が成立していたが、この結婚は実現しなかった。
1231年に母が死ぬとブルゴーニュ伯位を継ぎ、この年にフランケンのリヒテンフェルスに市の権利を与えた。1234年には父の死によってアンデクス公、メラーン公の地位を継承した。同じ1234年、チロル伯アルブレヒトの娘エリーザベトと結婚したが、子はなかった。若年であったため、当初は伯父にあたるバンベルク司教エクベルトの後見を受け、後見は1236年まで続いたとされる。エクベルトは翌1237年に没した。成人すると、ブルゴーニュ伯領の統治をナバラ王ティボー1世に任せ、自分はバイエルンにある所領をめぐって、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公オットー2世との争いに力を注いだ。この争いは長期化し、テーゲルンゼー修道院の守護職や、一族の本拠地であったアンデクス、ディーセン周辺の土地を失う結果となった。それでもインスブルックは保持して、1239年に市の権利を認め、岳父のチロル伯に管理を任せた。1242年にはフランシュ=コンテを、ブルゴーニュ公ユーグ4世に抵当として預けた。
晩年のオトン3世は、一族のフランケンにある所領に力を注いだ。皇帝フリードリヒ2世と教皇インノケンティウス4世の争いでは、父と同じく当初はホーエンシュタウフェン家の皇帝を支持していたが、1245年のリヨン公会議ののちに考えを改めたとされる。封主であるバンベルク司教の側に立ったため、帝国追放を受け、所領の多くを失ったともいわれる。先祖のアンデクス家の人々と同じく、フランケンのシトー会ランクハイム修道院を庇護した。
1248年、オトン3世は嗣子のないまま、フランケンのニーステン城で死去し、ランクハイム修道院に葬られた。メラーン公領は消滅し、フランケンに残った領地はバンベルク司教領に併合された。ブルゴーニュ伯位は妹アーデルハイトが継ぎ、夫のユーグ3世・ド・シャロンも結婚によりブルゴーニュ伯となった。舅のシャロン伯ジャン1世は1267年までブルゴーニュ伯領の摂政を務めた。オトン3世の寡婦は1249年にヒルシュベルク伯ゲープハルト4世と再婚した。伯父であるアクイレイア総大司教ベルトルト5世が1251年に没すると、アンデクス家は断絶した。なお、寡婦エリーザベトは1256年10月10日に没している。
同じ年に亡くなった人物
- サンシュ2世 (ポルトガル王) (1248年没)
- ヨランド・ド・ドルー (ブルゴーニュ公妃) (1248年没)
- アンリ2世 (ブラバント公) (1248年没)
- アル=アーディル2世 (1248年没)
- グユク (1248年没)
同じ地域に関係する人物
- バーバラ・クラフト (1825年没)
- Martin Schrottle (1972年没)
- ハンス・ブロンサルト・フォン・シェレンドルフ (1913年没)
- ハンス・フェルディナント・マイヤー (1980年没)
- ヘルベルト・エアハルト (2010年没)