HISTORICAL PERSON · 1246年没

ドレゲネ

オゴデイの第6夫人でグユクの生母。夫の死後に摂政として実権を握り、政治工作の末に息子グユクをカアンに即位させた。

生涯
1246年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ドレゲネは、モンゴル帝国の第2代皇帝オゴデイの夫人の一人で、第3代皇帝グユクの生母である。生年は不明で、1246年に没した。トレゲネと書かれる史料もある。出自についてはナイマン部の出とする史料が一致しており、クト・ブカ・テギンという人物の娘であったと推定されている。最初の夫はメルキト部の人物で、部族長のダイル・ウスンだったともいわれ、その夫はほかのメルキトの男たちとともに殺された。チンギス・カンがメルキトを征服した1204年に、ドレゲネはオゴデイの夫人として与えられた。長男がグユクである。

オゴデイの宮廷でドレゲネは次第に力を伸ばした。夫がしばしば酒に酔って動けないときには、代わって政務をとることもあったという。彼女の影響で、オゴデイは商人出身のアブドゥッラフマーンを中国での徴税役に任じた。1236年11月、オゴデイが後継者に指名していたクチュが南宋遠征中に陣没すると、オゴデイはクチュの長男シレムンを改めて後継者に推した。トルイ家のモンケを考えていたらしく、少なくともグユクを後継者にするつもりはなかったようだとされる。

1241年12月、オゴデイは過度の酒色がたたって死去した。その前後に筆頭皇后ボラクチンをはじめ主だった皇后が相次いで没し、オゴデイの皇后で最年長だったドレゲネが、突如として摂政・監国として帝国をまとめる立場に立った。オゴデイの死の直後、チンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギンが帝位をうかがう構えでカラコルムへ向かうと、ドレゲネはこれを叛乱に当たると非難して牽制した。ほどなくグユクが西方からイミル湖畔に到着したとの知らせが入り、テムゲ・オッチギンは弔問に来たのだと弁明して引き返した。ドレゲネは側近のファーティマ・ハトゥンの助言を受け、夫に重用された耶律楚材、チンカイ、ヤラワチらを政治の場から遠ざけ、アブドゥッラフマーンに帝国の財政運営を委ねた。耶律楚材はこの人事を批判する言葉を残している。ドレゲネはシレムンを成人していないという理由で後継候補から外させ、オゴデイ家の年長者である自分の子グユクを推した。1240年から1244年にかけては、自身は道教徒ではなかったが、道教の経典全体の木版印刷を後援したともされる。

西方の遠征軍を率いていたバトゥはこの動きに反対し、ドレゲネが召集するクリルタイに応じなかった。以後約5年間、カアンの位は空いたままで、ドレゲネの監国の時代が続いた。1246年6月、ようやくクリルタイが招集され、東方諸王家を束ねるテムゲ・オッチギンとその一族、トルイ家のソルコクタニ・ベキとその息子たち、チャガタイ家のカラ・フレグらが集まった。各地からの使節も加わり、帝国規模の会議が実現した。バトゥは自ら参加しなかったが、異母兄のオルダらを派遣した。1246年8月、ドレゲネは目的どおり、子のグユクをカアンの位につけることに成功した。その2か月後の10月、ドレゲネは没した。

摂政としてのドレゲネは、親切で贈り物を惜しまないという評判があった。ただしラシードゥッディーンによれば、その気前のよさは国庫を空にし、息子をカアンにするための買収の隠れみのにすぎなかったという。駅伝制度を大きく広げ、帝国中の官吏や商人の通行証のように使ったともされる。後世の記述には、聡明だが報復心が強く貴族と協調しなかったとする否定的なものが多い。グユクの強引な擁立にはバトゥやモンケら多くの人物が不満を抱き、のちの帝国分裂の一因となった。1248年4月、グユクも遠征の途上で急死した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。