伝記
アンナ・パヴロヴナ・パヴロワは、1881年2月12日、サンクトペテルブルクの貧しい家庭に生まれた20世紀初頭のロシアのバレリーナである。戸籍上は退役兵マトヴェイ・パヴロフと洗濯婦リュボーフィ・フョードロヴナの娘で、本名はアンナ・マトヴェーヴナ・パヴロワといい、舞台に立つ際に父称をパヴロヴナに改めたとされる。本人は実父が別人で2歳のときに亡くなったと語り、1913年の新聞はユダヤ系銀行家ポリャコフの私生児と報じたが、どちらにも歴史的な証拠はなく、真相は謎に包まれている。早産で生まれて病弱だったため、幼いころは祖母のもとで育てられた。
1890年、9歳のころに母に連れられてマリインスキー劇場で『眠れる森の美女』の初演を観たことが、バレエを志す出発点となった。帝室バレエ学校の試験には幼さと病弱な外見のために一度落とされたが、10歳の1891年に入学が認められた。強く反った足、細い足首、長い手足は、当時好まれた小柄でがっしりした体型と合わず、同級生からは「ほうき」などとからかわれた。それでも努力を重ね、「才能だけでは誰もたどり着けない。神は才能を与え、努力がそれを天才に変える」と語ったという。ヨハンソンやゲルトら名教師に学び、1899年に18歳で卒業すると、優秀な成績のため群舞を経ずにコリフェとしてマリインスキー・バレエに入団した。
色白で細長い顔、狭い肩幅、美しい足という理想的な体型を持ち、最晩年のプティパに才能を認められたことで、貧しい家の出ながら順調に昇進した。1902年にダンスーズ、1905年にプルミエール・ダンスーズ、1906年にプリマ・バレリーナとなり、熱狂的な崇拝者たちは「パヴロヴァツィ」と名乗った。1903年にはプティパが改訂した『ジゼル』で成功を収め、1907年には慈善公演でフォーキン振付の小品『白鳥』を踊って話題になった。これがのちに『瀕死の白鳥』と呼ばれ、彼女の代名詞となる。1908年にマリインスキーの舞踊手20名を率いてオーストリア、ドイツ、スイスなどを巡演し、翌1909年6月にはディアギレフの企画で、ニジンスキーと『レ・シルフィード』をパリで踊った。やがて海外巡演への関心を強め、1910年に2年間の休業を申し出たところ認められず、劇場との契約は破棄された。
1911年に自前のバレエ団パヴロワ・カンパニーを作り、翌年ロンドンに移住して、イギリスを中心に世界を巡演した。南米、インド、メキシコ、オーストラリアにも及び、団を率いて世界を回った最初のバレリーナとされる。1922年には日本の8都市で公演し、西洋舞踊を広く知らしめて、日本でバレエが定着するきっかけを作った。芥川龍之介は『露西亜舞踊の印象』で「僕は兎に角美しいものをみた」と賞賛している。1931年1月、風邪をこじらせたまま巡演に出発して肺炎になり、オランダのハーグで胸膜炎と診断された。外科手術を勧められたが、手術をすれば舞踊手として再起できないと告げられて拒み、1月23日、滞在していたホテルの客室で亡くなった。49歳だった。予定の公演は通常通り行われ、『瀕死の白鳥』の曲が流れる中、いつも踊っていた軌跡をスポットライトが無人の舞台に描いたという。遺体はロンドンで火葬された。その名を汚さぬよう、また比較されるのを恐れて、『瀕死の白鳥』は以後、プリセツカヤが違う振付で踊るまで20年間誰も踊らなかったという。
同じ年に亡くなった人物
- コズモ・ダフ=ゴードン (第5代準男爵) (1931年没)
- ジョーン・ビーチャム・プロクター (1931年没)
- ウィルソン・ベントレー (1931年没)
- F・W・ムルナウ (1931年没)
- アルベール・カペラニ (1931年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンドリック・ウィレム・メスダフ (1915年没)
- パック・ブラウワー (2006年没)
- ヨセフ・スカリゲル (1609年没)
- アルベルト・カイプ (1691年没)
- クリスティアン・ルートヴィヒ1世 (メクレンブルク公) (1692年没)