伝記
ジョゼフ・ジャック・セゼール・ジョフルは、1852年1月12日、スペイン国境に近いピレネー=オリアンタル県リヴザルトに生まれたフランスの陸軍軍人である。姓はジョッフルとも表記される。カタルーニャ人でワイン樽職人の家の出身とされ、ペルピニャンの学校などを経て、1869年にエコール・ポリテクニークに入学した。若いころから数学や図法幾何学、製図で優れた成績を収めたという。翌年に普仏戦争が始まると少尉として砲兵連隊に配属され、パリ攻囲戦に参加した。1872年9月21日に工兵連隊の中尉に昇進し、1876年には大尉となって、パリ城壁の建築に3年間かかわった。
その後は植民地を中心に、工兵として経歴を重ねた。1885年からは清仏戦争に参戦し、台湾、ハノイ、トンキンと赴任して、同年9月7日にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを授与された。1888年に帰国して陸軍省に配属され、1889年に少佐となり、ヴェルサイユで2年間勤務した。1892年にはフランス領スーダンへ転属してダカール・ニジェール鉄道の建設にかかわり、窮地に陥ったトンブクトゥ遠征隊を、軍を率いて救援した。この功で1894年3月6日に中佐に昇進している。その後はマダガスカルでガリエニ将軍のもとに配属され、1897年に大佐、1901年に旅団将軍となった。1903年に陸軍省の工兵局長、1905年3月24日に師団将軍となり、1910年には軍事参議官に就任した。
1911年7月、対独戦略をめぐって陸軍大臣と対立した戦争最高会議副議長が下野すると、大臣メッシミは陸軍司令部の再編に取りかかり、副議長職と参謀総長職を統合した。この新しい職には当初ガリエニらが候補に挙がったが、いずれも辞退したため、ジョフルに白羽の矢が立った。同年の第二次モロッコ事件では、イギリス軍のウィルソンがパリを訪れて有事の際の英軍の大陸派遣を提案しており、両国の参謀本部が初めて連携した瞬間だったとジョフルは回顧している。1914年4月15日には対ドイツ軍事計画「プラン17」が導入され、その目的は普仏戦争で失ったアルザス=ロレーヌの奪還だった。一方で、軍を動かす器を持ち合わせず「参謀の使い方も知らない」と言われたほどだったともいう。
第一次世界大戦が勃発すると、この計画の下でドイツと戦うことになった。緒戦ではドイツの攻撃を前に撤退を余儀なくされたが、1914年のマルヌ会戦に勝利した功績で名声が大いに高まった。しかし戦局が長期戦になり、ヴェルダンの戦いやソンムの戦いで大きな損害を出すと、1916年11月にロベール・ニヴェルに最高司令官の座を譲り、同年12月16日にフランス元帥の称号を得た。なお1914年7月にはレジオンドヌール勲章グランクロワを受けている。1917年春にはアメリカ合衆国への特使として派遣され、1918年にアカデミー・フランセーズの会員となった。1922年1月には前年の皇太子(のちの昭和天皇)の欧州訪問に対する答礼使として家族同伴で来日し、東京や関西を訪れた。1931年1月3日にパリで死去し、死後の1932年には『回顧録』が出版された。1936年には記念碑設立委員会が各国元首に基金の後援を依頼し、昭和天皇から3000フランが下賜されている。
同じ年に亡くなった人物
- トーマス・エジソン (1931年没)
- ネリー・メルバ (1931年没)
- ポール・ヴィダル (1931年没)
- ヘルマン・ミュラー (1931年没)
- サルヴァトーレ・マランツァーノ (1931年没)
同じ地域に関係する人物
- フランソワ・ルイ・ド・ブルボン (コンティ公) (1709年没)
- フランソワ=ユベール・ドルーエ (1775年没)
- ジャン=フィリップ・ラモー (1764年没)
- ジャン=ジャック・ベネックス (2022年没)
- モーリス・ローイ (1907年没)