伝記
トーマス・アルバ・エジソンは、1847年2月11日、アメリカ合衆国オハイオ州マイランに生まれた発明家・起業家である。父はサミュエル・オグデン・ジュニアでオランダ系、母はナンシー・エリアットでスコットランド系とされる。7人の子の末っ子で、7歳のときに一家はミシガン州ポートヒューロンに移った。幼少期は「アル」と呼ばれていた。アルバというミドルネームは、家族の友人であるブラッドリー大尉に由来するという。
幼いころから異常なほどの知りたがり屋で、小学校に入ったが、教師の理解が得られず、わずか3か月で退学した。算数の授業で「1+1=2」に納得せず、粘土を例に疑問を投げかけたとか、ガチョウの卵を自分で孵そうと何時間も小屋に座り込んだとか、物が燃える理由を知ろうと藁を燃やして納屋を全焼させたといった逸話が伝わっている。以後は自宅で独学し、とくに化学の実験に熱中した。12歳のころ聴覚障害を発症し、原因については自分でさまざまな話を作ったが、実際は幼少期の猩紅熱と、治療されなかった中耳炎の再発によると現在は推測されている。のちには、難聴のおかげで気が散らず仕事に集中しやすいと考えていたという。少年のころは自分で新聞を作って列車の中で売り、13歳までに週50ドルの利益を上げて、その多くを実験器具の購入にあてた。15歳のとき、働いていた駅で駅長の幼い息子が汽車にひかれそうになったのを助け、お礼に電信の技術を教わったことが、技術者としての歩みの出発点になったという。16歳のころには電信技士として働き、各地を転々としながら科学雑誌を読んで学び続けた。
1868年、21歳で初めて特許を取り、それは議会の賛否を押しボタンで集計する電気投票記録機だったが、実際には採用されなかった。この経験から、人々が求めるものを発明すべきだと痛感したと伝えられる。翌1869年の株式相場表示機は業界に歓迎され、特許権は4万ドルで買い取られた。1877年には蓄音機の実用化で名声を得て、ニュージャージー州にメンロパーク研究所を設けた。研究所では電話、蓄音機、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを次々に商品化した。なかでも力を注いだのは白熱電球で、先行する多くの電球を実用的に改良した。ほどなく合弁会社を設立して直流の電力供給の仕組みを整え、巨額の出資を受けた会社は、のちのゼネラル・エレクトリックにつながった。生涯に約1,300もの発明を行い、自分の権利を守るために訴訟を厭わなかったことから「訴訟王」とも呼ばれた。
1887年にウェストオレンジの研究所へ移り、1893年にはその敷地にアメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア」を設けた。キネトグラフは彼の発明とされるが、実際は部下のウィリアム・ディックソンの発明だという。1901年と1907年に新しい映画スタジオを開き、約1,200本のフィルムを制作した。晩年は鉱山経営に失敗し、会社経営から身を引いて研究所にこもり、死者との交信を試みる霊界通信装置の開発を続けた。1914年12月には研究所が火事で全焼して約200万ドルの損害を被ったが、臆さずに研究を続けた。1871年に16歳のメアリー・スティルウェルと結婚したが、彼女は1884年に腸チフスで亡くなり、後に再婚した。1931年10月18日、ウェストオレンジの自宅グレンモントで糖尿病の合併症のため84歳で没した。
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